ヘット・プライン

マーカーはオラニエ公ウィレム1世の像です。

ヘット・プライン
[「ビネンホフ」の隣(東側)、「バウテンホフ」とは反対側には、「プレイン」(Het Plein)があります。歴史あるこの広場には、荘厳な建物や、カフェ、レストランが集まっています。夜になると、これらのカフェはクラブに変身。「プライン」はデン・ハーグ有数のホットスポットです。  (「デン・ハーグの広場」より)]

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カメラ位置はヘット・プラインです。広場中央にオラニエ公ウィレム1世の像があり、広場東側中程にハアグスヘ・クラウスがあります。

ウィレム1世 (オラニエ公)
[ウィレム1世(Willem I, 1533年4月24日 – 1584年7月10日)は、オラニエ公。八十年戦争勃発時の中心人物で、オランダ独立国家(ネーデルラント連邦共和国)の事実上の初代君主。ホラント州ゼーラント州他の総督(在位:1572年 – 1584年)。「沈黙公」として知られているが、これは反乱直前の時期の旗幟を鮮明にしない態度を揶揄したもので、実際には誰にでも愛想がよく非常におしゃべりであった。
1566年、フランドルで反カトリック暴動が発生し、その反乱はネーデルラント各地へと広まり、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。
フェリペ2世は事態の収拾を図るため、アルバ公を1万ほどの軍勢とともに派遣した。ネーデルラント貴族はこの暴動の責任を問われ、エフモント伯ラモラール、ホールン伯フィリップを含む有力貴族20人余りが処刑された。この際、オラニエ公ウィレムはドイツに逃れており無事だったが、領地、財産の多くが没収された。
1568年4月、ドイツに逃れていたウィレムは、軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻するが、5月23日ハイリハレーの戦いに勝利したものの、結局は失敗に終わった。
軍勢を整えて再起を図ったウィレムは、弟のローデウェイク(ルートヴィヒ)、アドルフらとともにスペイン軍に戦いを挑むが敗北し、今度はフランスに逃れ、ユグノーに合流した。そして「海乞食(ワーテルヘーゼン)」と呼ばれる海賊軍団(ゼーゴイセン)を組織し、低地地方の沿岸を無差別に略奪を繰り返しながら、徐々に勢力を回復した。
1572年4月1日海乞食はブリーレの占拠に偶然にも成功し、やがて港湾都市を少しずつ制圧していった。同年7月ホラント州は反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えることとした。ホラント・ゼーラント2州に海乞食が足場を整えると、改革派が続々と流入し、徐々に主導権を握るようになった。
1572年にホラント州、ゼーラント州の総督となり、反スペイン勢力の中心となる。これを受けて、スペインの迫害を受けていたプロテスタントの多くがこれらの州へ流入するようになった。1573年2月にはホラント州でカトリックの礼拝が禁じられた。
スペインとの戦いが続く中、1584年7月10日、ウィレムはデルフトの彼の居館プリンセンホフで、フェリペ2世を信奉するフランス人のカトリック教徒バルタザール・ジェラールによって暗殺された。昼食を取るために2階の書斎から1階へ下りようとしたウィレムは、突然現れた暗殺者から3発の銃弾を浴びせられ、「神よ、わが魂と愚か者たちにお慈悲を」との言葉を残して倒れたと伝えられている。プリンセンホフの階段の壁にはその時の弾痕が今も残されている。次男マウリッツが後継者として1585年にホラント州、ゼーラント州の総督に就任する。その後、1597年までに再び北部7州をまとめ上げ、対スペイン戦争を継続していった。
オラニエ公ウィレム1世・wikipedia-photo  (wikipedia・ウィレム1世_(オラニエ公)より)]

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