パリのパサージュ

「Google Earth で街並散歩(ヨーロッパ編)」で取り上げた、パリのパサージュについてまとめてみました。

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    [パサージュ(passages、パッサージュとも)とは、19世紀以降のパリにみられる、ガラスのアーケードのついた歩行者専用の商店街のことである。もともと、「パサージュ」とはフランス語で、「通過」や「小径」などをあらわす。パサージュの起源は、ルイ16世(在位:1774 – 1792年)の従兄弟にあたるオルレアン公(ルイ・フィリップ2世)に遡るとされる。ルイ・フィリップ2世は、1786年にパレ・ロワイヤルの庭園を分譲して店から賃貸料を得た。歩道の整備が進んでいなかった時代に、パサージュは歩行者にとって快適な場所として成功をおさめ、19世紀を中心に建設が流行した。フランス革命により王侯貴族が所有していた土地が資本家の手に渡り、彼らは再開発の一環として、近道として敷地を通り抜けられる商店街兼通路を作って儲けようと考えた。これが19世紀のパサージュ乱立の契機である。舗装されていない泥道の他の通りに対してタイル等で舗装され雨にぬれる心配も無いパサージュは人々があふれ返り、「散歩する」「ぶらぶら歩く」という楽しみの概念も、パサージュから市民に広まったと言われている。地下から温風が噴き出す暖房設備を付けたり、蝋人形館を作るなど、パサージュ間の客引きもあった。多い時には100を数えたパサージュだが現在は十数箇所を残すのみとなっている。  (wikipedia・パサージュより)]

    [パサージュ・クーヴェル (Les Passages couverts) は複数の通りを接続することを目的に既存の建築物を改築して設けた通り抜け道、歩行者専用道路。18世紀以降のフランスを中心に建造された。通路はガラス製の屋根に覆われている。複雑に入り組んでいる通路もある。パサージュ、小路とも記される。
    パリのパサージュ・クーヴェルは18世紀末から20世紀初頭にかけて、特に復古王政期に多くが建造された。位置は2区周辺のセーヌ川右岸に集中する。1786年にパレ・ロワイヤルの中庭に面して建造されたガラス製の屋根を持つ回廊型商店街のギャルリ・ド・ボワ (Galerie de Bois) がパサージュ・クーヴェルの原型とされる。最古のパサージュ・クーヴェルは1791年に開通したパサージュ・フェイドー (Passage Feydeau) であったが取り壊されて残っていない。1798年に開通したパサージュ・デュ・ケールが現存するパサージュ・クーヴェルのうち最も古いものである。18世紀末から19世紀初頭のパリは、縦横の道路が未整備であったために通りから別の通りへと抜けることが困難で、道幅も狭い上に馬車の通行が多かったため歩行者は不便を強いられていた。盛り場付近にある建物の所有者は建物の間を通り抜ける近道を通せば集客と店子からの賃料で儲けることができると考えた。建物の所有者たちはガラス屋根や大理石で覆われた壁と床、モザイクタイルが敷かれた通路、ガス灯、暖房設備など豪奢な内装を競って設えた。パサージュ・クーヴェルには生地屋、仕立て屋、靴屋、ワイン商、レストラン、書店などが入居し高級商店街として大いに賑わった。1830年のフランス7月革命以降にパレ・ロワイヤルからグラン・ブールヴァールへと中心地が移り、さらにボン・マルシェなどのデパート開業やジョルジュ・オスマンパリ改造による大通り開通によって、商業施設・交通網としての重要性が薄れてパサージュ・クーヴェルは衰退した。
    パサージュ・クーヴェルは20世紀後半に発行されたヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』 (Das Passagen-Werk) によって再注目された。ギャラリー・ヴィヴィエンヌなどいくつかのパサージュ・クーヴェルが近年に改修された。ギャラリー・コルベールはフランス国立図書館の別館として現存する。フランス政府によって歴史建造物 (Monuments historiques) の登録と保護が進められている。
    ギャルリ・コルベールのロタンダwikipedia-photo、ギャルリ・ヴィヴィエンヌのパノラマ・wikipedia-photo  (「パリのパサージュ・クーヴェル」より)]

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