パンプローナ市庁舎

マーカーはパンプローナ市庁舎です。

パンプローナ市庁舎
[チュピナソ(開会宣言) – 7月6日の午前中、パンプローナ市庁舎前広場は、白いワイシャツを着てパンタロンを履き、赤いネッカチーフを頭上に掲げて腰にはベルトを巻きつけた市民で埋め尽くされる。この白と赤の仮装の習慣は1940年代頃に始まったとされる。12:00になると、「パンプローナ市民たちよ、サン・フェルミン万歳!」という開会宣言に次いで、市庁舎のバルコニーからチュピナソ(ロケット花火)が打ち上げられる。本来、開会宣言はパンプローナ市長の役割だったが、1979年にスペインの民主化後初の地方選挙が行われると、各党の政治家が持ち回りで開会宣言を務めている。参加者は「パンプローナ人」「ビバ、サン・フェルミン」などを合唱し、シャンパンや水の掛け合い、生卵や小麦粉の投げ合いなどの乱痴気騒ぎを繰り広げる。
ポブレ・デ・ミー(閉会宣言) – パーティの9日後の7月14日深夜、パンプローナの人々が市庁舎前広場に集まり、キャンドルの明かりで照らされながら、ポブレ・デ・ミー(貧しい私)という悲しげな旋律を歌う。参加者がキャンドルを灯し、持っていた赤いスカーフを畳むと、市長は祭礼の閉会を宣言する。この行事は1920年代に始まった。
市庁舎前広場で赤いスカーフを掲げる群衆・wikipedia-photo、祭礼時のパンプローナ市庁舎・wikipedia-photo、市庁舎のバルコニーから打ち上げられるチュピナソ・wikipedia-photo  (「サン・フェルミン祭」より)]

[パンプローナ市議会(バスク、イルネコウダラ)は、スペインナバラ州の首都パンプローナ市を管理する機関です。市庁舎は旧市街の市庁舎広場にあります。市庁舎は、毎年7月6日12:00にサンフェルミン祭を開始するチュピナゾの発祥地です。議長はパンプローナ市長が議長を務めています。パンプローナ市長は1979年以来、普遍的な選挙権によって民主的に選出されています。
建物の場所は、ナバラ王カルロス3世(在位:1387年 – 1425年)によるパンプローナの統一と平和化の連合特権(Privilegio de la Unión)の配置により、1423年に配置されました。パンプローナのさまざまな自治区の等距離の場所にありました。
この同じ場所で、いくつかの建物が発生しました。 したがって、1753年に原始的な建物は取り壊され、1755年に建築家フアン・ミゲル・ゴエネタ(Juan Miguel Goyeneta)とホセ・ザイ・イ・ロルダ(José Zay y Lorda)によるロココ様式ファサードが新しく建てられましたが、1年後にフアン・ロレンツォ・カタラン(Juan Lorenzo Catalán)によって修正されました。このファサードは、当時の建物に残っている唯一のものです。しかし、鉄のバルコニーや理性、正義、ヘラクレス、名声の魅力的な彫刻など、細部にバロック風の味があります。
建物の内部は完全に取り壊され、ホセ・マザール(José Mazal)による素晴らしいバロック階段が消え、1951年に建築家ホセ・ヤルノス・オルコイエン(José Yárnoz Orcoyen)の指揮の下に再建されました。

「サン・フェルミン祭中のパンプローナ市庁舎」・wikipedia-photo、メインファサード・wikipedia-photo、「自治体庁舎正面のバルコニー。サン・フェルミンではここから首長が祭りの開始の宣言を行う。」・wikipedia-photo]

Ayuntamiento de Pamplona – Iruñeko Udala – Google Map 画像リンク」「Plaza Consistorial – Google Map 画像リンク

カメラ初期設定方向がパンプローナ市庁舎です。

パンプローナ市庁舎エントランスホールのカメラです。

パンプローナ
[紀元前75年から前74年にかけての冬、一帯は共和制ローマ(前509年 – 前27年)の将軍ポンペイウス(紀元前106年 – 紀元前48年)がセルトリウス(前123頃 – 前72)との争いの中で駐屯地とした。彼はポンパエロ(Pompaelo)の創設者とみなされている。ポンパエロが現代スペイン語でパンプローナとなった。ここは、ローマ人がやってきた頃に既に一帯に住んでいたヴァスコン人バスク人の祖先とされる)の主要な町で、彼らは町を、都市を意味する言葉『イルーニャ』(Iruña)と呼んだ。ローマ都市ポンパエロは属州ヒスパニア・タラコネンシスに含まれ、ブルディガラ(現在のボルドー)からアストゥリカ(現在のアストルガ)へと至る道の途上にあった。それはカエサラウグスタ(現在のサラゴサ)の属州州都の管轄区域にある都市だった。ポンパエロはローマ属州ヒスパニアの目立った都市とはいままでみなされず、最近の考古学発掘物が高い内容の文化の発展を公けにした。
ローマ帝国(紀元前27年 – 395年ローマ帝国分裂)の衰退後、4世紀から8世紀に西ゴート王国(415年 – 711年)が栄えた時代には、西ゴート族がポンパエロを管理下においていたとすればもっともだが、おそらく断続的な支配だけだったのだろう。パンプローナの要塞化された都市は、土着のヴァスコン人が独立を保っていた。それは、数名のパンプローナ人司教がトレド教会会議に出席していたことでも知られていた。
8世紀、モーロ人フランク族が断続的に市を支配下に置いた。732年、アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー(Abdul Rahman Al Ghafiqi)がピレネーを越えてトゥール・ポワティエ間の戦いで敗北した。この曖昧な時代に最もよく知られる挿話は、カール大帝(フランク王国の国王・在位:768年 – 814年)が778年にサラゴサ遠征を失敗した後、パンプローナの市壁を破壊したことである。彼はその直後に有名なロンセスバージェスの戦い(Battle of Roncevaux Pass)で敗北したのである。8世紀終わり、パンプローナとその影響を受け動揺する一帯は、2つの強力な国家、フランク王国(481年 – 987年)と後ウマイヤ朝(756年 – 1031年)の間にあった。しかしこの2つはバスク地方を恒久的に支配することが確実でなかったと証明された。この錯綜(さくそう)は、バスク人貴族の内部紛争も反映していた。ついに、824年にイニーゴ・アリスタ(Íñigo Arista of Pamplona・サンチョ2世・在位:824年 – 851年)がパンプローナ王(のちにナバーラ王)として即位した。この王国は、弱体化したフランク王国とコルドバの太守国(後ウマイヤ朝)からその独立を強化した。それにもかかわらず、この時代のパンプローナは都市として繁栄せず、ちょうど要塞の一種であった。
11世紀から復活した経済成長がパンプローナの都市生活を回復させた。歴代のパンプローナ司教たちは、教会内の指導者的役割に復帰した。かつて数世紀間孤立していた修道院、特にレイレ修道院は実際に宗教の権力を持っていた。サンティアゴの巡礼路が、ピレネー山脈を越えてやってくるヨーロッパのキリスト教徒と商業・文化のやりとりを復活させるのに多大に貢献した。12世紀、パンプローナは2つの分離されたブルゴス(独立した自治体)を持つ都市に拡大した。サン・セルニン(San Cernin)とサン・ニコラス(San Nicolás)は、地元ナバーラ人の定住者に加えフランス人商人と職人の流入によって膨張した。パンプローナ旧市街と、新ブルゴスはほぼ常に両者の間で起こるケンカで忙しかった。最も劇的な事件は、1276年に起きたブルゴス住民によるナバーラ人居住区の破壊と住民の虐殺である。この凄惨な出来事の場所は以後ほぼ50年間打ち捨てられていた。ナバーラ王カルロス3世(在位:1387年 – 1425年)は、1423年にブルゴスを統合して1つの都市とする法令を発した。
1512年のカスティーリャ王国(1035年 – 1715年)による軍事侵攻の際、敗北したナバーラ王フアン3世(在位:1484年 – 1516年)はフランスへ逃亡、その後奪回はことごとく失敗してしまった。ナバーラで開催されたコルテスは、ナバーラの自治権と独自性の維持を条件に、併合を受け入れた。以後、パンプローナは名目上のナバーラ王国(824年 – 1620年)の首都であり続けた。パンプローナは、ピレネーの軍事防衛における鍵の役割を得たのである。  (wikipedia・パンプローナより)]

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