1462 年まで、ピエンツァ (Pienza) の町はコルシニャーノと呼ばれる小さな村にすぎませんでした。その運命を変えた出来事は、1405 年にアエネアス・シルウィウス・ピッコローミニ( Enea Silvio Piccolomini )が誕生したことでした。彼は 53 年後にローマ教皇ピウス 2 世(在位:1458年 – 1464年)になりました。教皇のマントヴァへの旅の途中、教皇は自分の生まれ故郷を通過している時、故郷が凋落していることに気付き、故郷の村の上に新しい理想的な都市を建設することを決意し、建築家ベルナルド・ロッセリーノに改修プロジェクトを任せました。約 4 年間、典型的な 15 世紀の形をした調和のとれた町の創造につながりました。教皇ピウス 2 世の早すぎる死は、彼にちなんで名付けられた新しい都市の歴史も終わらせました – ピエンツァは実際には「ピウスの都市」を意味します – それ以来、限られた変化を遂げてきました。ルネサンス時代の歴史的中心部の美しさから、1996 年にピエンツァはユネスコの世界遺産の一部となり、2004 年にはヴァル・ドルチャ(オルチャ渓谷)が世界遺産に登録されました。 (「https://it.wikipedia.org/wiki/Pienza」より)
ピエンツァは、トスカーナ州シエーナ県にあり、シエーナの南東52km、車で約1時間半ぐらい、人口は約2200人の町。旧市街は東西に400m、南北に150m程度しかない小さな町で、オルチャ渓谷を見下ろす丘の上に立っています。城壁に囲まれた東西400メートル程の箱庭のような小さな町で「トスカーナの宝石」と呼ばれています。
この町は古代ローマ時代にはCorsignanoと呼ばれていました。9世紀にはすでにアミータ山の大修道院がこれを所有し、次いでシエーナの自治都市の手に移り、最後にピッコロミニ家の領土となりました。15世紀に教皇ピオ2世は、生まれ故郷のこの町をルネッサンスの「理想都市」に作り替えることを構想し、町の名前もピエンツァ(ピオの町)に改めました。フィレンツェの建築家であり彫刻家であったベルナルド・ロッセリーノ(Bernardo Rossellino)にその設計を依頼しました。かつては中世の町の広場であったピオ2世広場(Piazza Pio II)もレオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberto)の「建築論」(De re aedificatoria)に従い、既存の都市を改造しながら徐々に理想に近づけるという現実的発想のなかで、幾何学的手法や透視図法の応用を生かし、建築全体に合理性、均等、対象を刻み込んだルネッサンス的都市空間が創り出されています。 (「ピエンツァ市街の歴史地区 – 愛知県共済インターネット公開文化講座」より)
ピエンツァの鳥瞰カメラで、ピエンツァの周辺がオルチャ渓谷になります。
ピエンツァ・バス停留所、プラート門(Porta al Prato)、サン・フランチェスコ教会、ピッコロミニ宮殿、ピオ2世広場、ピエンツァ大聖堂、ピエンツァ司教宮殿・教区宗教美術館、ピエンツァ市庁舎、チーリオ門(Porta al Ciglio)、カステッロ通り(Via del Casello)、聖者門(Porta al Santo)
サンティ・ヴィート・エ・モデスト教会