ファン・ゴッホは、1888年2月20日、弟テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった。この地から、テオに画家の協同組合を提案した。エドガー・ドガ、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、カミーユ・ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマン、ジョルジュ・スーラ、ポール・ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった。
ファン・ゴッホは、エミール・ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き(『アルルの跳ね橋』)、3月下旬から4月にかけてはアンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描いた。また、3月初めに、アルルにいたデンマークの画家クリスチャン・ムーリエ=ペーターセン(Christian Mourier-Petersen)と知り合って一緒に絵を描くなどし、4月以降、2人はアメリカの画家ドッジ・マックナイト(Dodge MacKnight)やベルギーの画家ウジェーヌ・ボックとも親交を持った。
『アルルの跳ね橋(アルルのラングロワ橋と洗濯する女性たち)』1888年3月、アルル。(wikipedia-photo)
『花咲くモモの木』1888年3月30日頃、アルル(wikipedia-photo・左下に「モーヴへの贈り物」と書かれている。)
[モーヴ(またはアントン・マウフェ、Anthonij (Anton) Rudolf Mauve、1838年9月18日 – 1888年2月5日)の妻アリーテ・ソフィーア・ジャーネッテ・カーベントゥス(Ariëtte (Jet) Sophia Jeannette Carbentus)は、ゴッホの従姉妹であり、ゴッホは画家を志した初期にモーヴを頼り、その影響を受けた。ゴッホの手紙の中でも繰り返しモーヴの名前が言及されている。ゴッホは、1881年末にモーヴのアトリエで3週間を過ごし、油絵と水彩画の手ほどきを受けた。モーヴは、ゴッホを励まし、部屋代を貸してやったりもしたが、次第に彼への態度は冷たくなった。1882年5月の弟テオへの手紙の中で、ゴッホは、モーヴとの間で「とても残念な会話」があり、2人の関係は終わったと述べている。そして、それに続けて身重の娼婦シーン(クラシーナ・ホールニク)と自分の交際関係について弁護している。モーヴの態度が変わったのは、ゴッホとシーンの関係を聞いたためではないかと考えられる。ただ、ゴッホのモーヴに対する敬意はその後も変わらず、モーヴの急死を聞いて、ゴッホは1枚の絵を彼の思い出として描いている。 (wikipedia・アントン・モーヴより)]
『花咲くセイヨウナシの木』1888年4月、アルル(wikipedia-photo)
同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物(「黄色い家」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。ポン=タヴァンにいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている。
5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた。6月初めにはムーリエ=ペーターセンが帰国してしまい、寂しさを味わったファン・ゴッホは、ポン=タヴァンにいるゴーギャンとベルナールとの間でさかんに手紙のやり取りをした。
『サント=マリーのビーチでの釣り船』1888年、アルル(commons.wikimedia)
『サント=マリーの海の風景』1888年6月初頭、アルル(commons.wikimedia)
『サント=マリーの通り』1888年6月初頭、アルル(wikipedia-photo)
『サント=マリーの3件の家』1888年6月初頭、アルル(wikipedia-photo)
『収穫(La cosecha (Van Gogh))』(麦秋のクローの野)1888年6月、アルル。(wikipedia-photo)
『日没の種まく人』1888年6月、アルル(wikipedia-photo)
『座ったズアーブ兵』1888年6月、アルル(wikipedia-photo)
7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って『ラ・ムスメ』という題を付けた。同月、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像を描いた。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、『ひまわり』を4作続けて制作した。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた『夜のカフェ』を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす居酒屋であり、ファン・ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている。
『ラ・ムスメ、座像』1888年7月、アルル(wikipedia-photo)
『郵便夫ジョゼフ・ルーラン』1888年8月初頭、アルル(wikipedia-photo)
『ひまわり』1888年8月、アルル、ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘン)(wikipedia-photo)
『夜のカフェ』1888年9月、アルル(wikipedia-photo)
一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ファン・ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた。ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に『夜のカフェテラス』を描き上げた。9月下旬、『黄色い家』を描いた。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(『アルルの寝室』)。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#アルル(1888年-1889年5月)より)
『夜のカフェテラス』1888年9月、アルル(wikipedia-photo)
『ローヌ川の星月夜(Starry Night Over the Rhône)』1888年9月、アルル(wikipedia-photo)
『黄色い家』1888年9月、アルル(wikipedia-photo)
『ミリエ少尉の肖像(恋する男)』1888年9月末、アルル(wikipedia-photo)
[ヴィンセントは、軽歩兵軍団であるズアーブ兵の第3連隊の少尉であるポール・ユージーン・ミリエ(1863–1943)に描画と絵画のレッスンを行いました。連隊はアルルのCaserneCalvin兵舎に駐屯していた。二人の男は友達になりました。彼らの活動には、1888年7月にアルル近くのモンマジュール丘への遠足が含まれていました。1888年8月中旬にミリエットがフランス北部に旅行したとき、彼はパリのテオに36点のフィンセントの作品を届けました。フィンセントは、彼の寝室にウジェーヌ・ボックの肖像画(wikipedia-photo)と並んで恋する男(ミリエット中尉の肖像画)を掛けました。作品は彼の絵画「寝室」に描かれています。]
『アルルの寝室』1888年10月、アルル(wikipedia-photo)
1888年10月23日、ポール・ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの『アルルの女』)。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の『種まく人』を描いた。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている。
ゴーギャンによる、ひまわりを描くファン・ゴッホの肖像(1888年11月)。ひまわりの季節は終わっており、ゴーギャンの想像による作品と思われるが、その表情の描写はカリカチュア的ともいえる。(wikipedia-photo)
『赤い葡萄畑』1888年11月、アルル(wikipedia-photo)
『アルルの女 (ジヌー夫人)』1888年11月、アルル(wikipedia-photo)
『種まく人』1888年11月、アルル(wikipedia-photo)
『種まく人』1888年11月、アルル(wikipedia-photo)
『郵便夫ジョゼフ・ルーラン』1888年11月-12月、アルル(wikipedia-photo)
一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン(フィンセント)と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ファン・ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている。12月中旬(16日ないし17日)、2人は汽車でアルルから西へ70キロのモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れた。ファン・ゴッホは特にドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラントについて熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ゴーギャンとの共同生活より)
『アルルのダンスホール』1888年12月、アルル(wikipedia-photo)
[1889年1月27日日曜日、ヴィクトルユーゴー通りの劇場兼ダンスホールであるフォリーズアルレシエンヌを訪れ、マルセイユのグループが「La pastorale」を演じるのを見ました。彼はパフォーマンスが「驚くべき」と感じ、特に一人の女優に感銘を受けました。ヴィンセントは外出を楽しんで、それが彼の睡眠に役立ったとテオに書いています。]
『アルルの競技場の観衆』1888年12月、アルル(wikipedia-photo)
[ヴィンセントは、毎週日曜日にアルルのアリーナで開催された闘牛に数回行き、闘牛を見るために群がった群衆に感銘を受けました。]
1888年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。12月30日の地元紙は、次のように報じている。
『先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。
— 『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日』
ファン・ゴッホ自身はこの事件について何も語っていない。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ゴーギャンとの共同生活より)
ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。
しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。
退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#アルル市立病院より)
『レー医師の肖像(Portrait du docteur Rey)』1889年1月、アルル(wikipedia-photo)
『包帯をしてパイプをくわえた自画像』1889年1月、アルル(wikipedia-photo)
『自画像(耳に包帯をしたもの)』1889年1月、アルル(wikipedia-photo)
『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』1889年1月、アルル(wikipedia-photo)
1889年1月20日、ジョゼフ・ルーランが、転勤でアルルを離れなければならなくなり、ファン・ゴッホは、親友を失った。ファン・ゴッホは、テオに、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いている。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に収容された。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出された。2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出した。
ファン・ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。僕の過失など証明されておらず、証明することもできないのに」と憤りの手紙を送っている。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ。
そんな中、3月23日、画家ポール・シニャックがアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった。
病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめ。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#アルル市立病院より)
アルル市立病院の中庭(wikipedia-photo)
『アルルの病院の中庭』1889年4月、アルル(wikipedia-photo)