フィンセント・ファン・ゴッホの生涯紹介サイト – 『「フィンセント・ファン・ゴッホ | 名古屋市【愛知県青い鳥医療療育センター】』
1881年4月、ファン・ゴッホはブリュッセルに住むことによる経済的な問題が大きかったため、エッテンの実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けた。まだぎこちなさが残るが、この頃にはファン・ゴッホ特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていた。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#エッテン(1881年)より)
[この年の夏の終わり、フィンセントはハーグに向かいました。ハーグ派の画家マウフェ(アントン・モーヴ)の助言を求めるためです。グーピル商会に勤めていたハーグ時代、フィンセントはマウフェと親しくつきあったことがありました。それに、ちょうど、この頃、マウフェはフィンセントの従姉妹と結婚したばかりでした。著名な画家でしたが、顔見知りで親戚のマウフェは気楽に相談できる相手だったのです。
マウフェはフィンセントのスケッチを見て、ペンを捨て、絵筆やチョークでデッサンし、また、画集ではなく生きたモデルを使って素描の勉強をすべきだとアドバイスしてくれました。この的確な助言のおかげでフィンセントの技量はあがったようです。「僕の素描に変化が起きたということだ。描き方も、その結果も変わったのだ…….ぼくは人物素描についてのよりすぐれた眼識がえられた…….これまでとうてい無理だと思っていたことでも、いまでは徐々にできるようになってきた(No 150. 1881年9月)」とたくさんの人物スケッチを添えてテオに書き送っています。 (「「フィンセント・ファン・ゴッホ | 名古屋市【愛知県青い鳥医療療育センター】」より)]
夏の間、最近夫を亡くした従姉のケー・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはファン・ゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずファン・ゴッホは求婚するが、「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされた。
ケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ファン・ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、弟テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみだった。伯父ストリッケル牧師の頑迷な態度は、ファン・ゴッホに聖職者たちへの疑念を呼び起こし、父やストリッケル牧師の世代との溝を強く意識させることになった。
11月27日、ハーグに向かい、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴから絵の指導を受けたが、クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省する。しかし、クリスマスの日に彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに実家を離れて再びハーグへ発ってしまった。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#エッテン(1881年)より)
エッテンの道(1881年)(commons.wikimedia)
『鎌で草を刈る少年』1881年10月水彩絵の具(commons.wikimedia)
『黄色い麦わら帽子のある静物』1881年11月末-12月半ば、ハーグ(wikipedia-photo)
1882年1月、彼はハーグに住み始め、オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはファン・ゴッホに油絵と水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見た。ハーグの絵画協会プルクリ・スタジオの準会員に推薦したのもモーヴであった。しかし、モーヴは次第にファン・ゴッホによそよそしい態度を取り始め、ファン・ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ファン・ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)という身重の娼婦をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するファン・ゴッホとの意見の不一致も原因のようである。ファン・ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった。
同年(1882年)3月、ファン・ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ファン・ゴッホはハーグ市街を描き続けた。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ファン・ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった。ファン・ゴッホは同年6月、淋病で3週間入院し、退院直後の7月始め、今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ヴィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した。
ファン・ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、1883年5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている。ファン・ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ファン・ゴッホは、9月11日、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発った。また、同年10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ハーグ(1882年-1883年)より)
1882年夏頃、遠近法やプロポーションを捉えるための透視枠を自作し、1888年5月のアルル初期まで使用していた。(wikipedia-photo)
『シェンクウェグ(Schenkweg)の家』1882年3月(commons.wikimedia)
フィンセント・ファン・ゴッホの1882年から1883年の2つの住居は、右側の建物に見ることができます。「彼の最初の住居は、4つのドアがあるやや高い建物にあり、上層階の左側にありました。彼が1882年7月に引っ越した2番目の住居は、最初の階の左側の上層階でした。」。その後、この地域は再開発されました。
シーンを描いた『悲しみ』1882年4月、ハーグ。素描(黒チョーク)。(wikipedia-photo)
『屋根、ハーグのアトリエからの眺め』1882年、ハーグ。水彩。(wikipedia-photo)
『ファン・ゴッホの部屋から見た大工の作業場と洗濯場』(デン・ハーグ、1882年5月)(commons.wikimedia)
『Pollard Willow』ハーグ、1882年7月27日)(commons.wikimedia)
『スヘフェニンゲンの海の眺め』1882年8月21日又は22日、スヘフェニンゲン(wikipedia-photo・2002年12月に盗難、2016年9月にイタリアで発見)
『ゆりかごにひざまずく少女』1883年3月、ハーグ(commons.wikimedia)
[1883年9月11日、フィンセントはオランダ東北部のドレンテに旅立ちます。ドレンテを選んだのは、ラッパルトからモティーフの宝庫と聞かされていたからでした。しかし、ドレンテでフィンセントが目にしたのはヒースの野と泥炭地がどこまでも続く平坦な大地だけでした。フィンセントはホーヘフェーンという辺鄙な町の宿をとりあえずのアトリエとします。そして、曳き船に乗ってあたりを探索し、景色をスケッチし、油絵を描きました。さらに、ドイツと国境を接するニーウ・アムステルダムという辺境の地にまで足を伸ばします。泥炭採掘に従事するためアムステルダムから流れ着いた人間がこの地にはたくさんいました。町の名前はそのことに由来します。ホーヘフェーン以上に何もない町で、相談できる画家も心を打ち明けられる友人もいませんでした。ここで、フィンセントは泥炭と緑青でできたような暗い絵をいくつか描いています。おそらく、シーンたちとの「家庭生活」に馴染んでいた心に孤独なドレンテの生活は耐え難かったのでしょう、いずれも、暗い心を映し出すかのような荒涼たる絵です。冬が迫り、再び気分も落ち込み始めました。
しかも、この頃、テオはグーピル-ブッソ・エ・ヴァラドン商会の上司、ルネ・ヴァラドンやブッソと意見があわず、商会をやめてアメリカにでも行きたいと心の内をフィンセントに手紙で漏らします。驚いたフィンセントは、いつもと立場を逆転、なんとかテオをなだめようとしました。グーピル商会における自分の6年間の経歴がその後の人生になんにも役に立たず、職を辞めた後はたんなる失業者としてしかみられなかったことを述べ「僕は末輩の一人だったが、君は上席の一人だ。だが、もし、君がそこから出てしまうようなことになれば、いま僕が根無し草についていったような思いを君も味わうのではないかと心配なのだ。だから冷静にこの事実に直面することだ。彼らに抵抗することだ。また初めからやり直さねばならないという困難な状況の中へ何らかの準備もなしに追い出されるがままというのはだめだ…….アメリカに行くことはないよ。だって、向こうへ行ってもパリと全く同じことなのだから」
この手紙が効いたのかどうかは分かりませんが、とりあえず、テオは商会にとどまることにしました。
しかし、フィンセントのほうは暗い冬のドレンテにとても耐えられなくなっていました。結局、12月、絵画やスケッチを宿屋においたまま両親の元に戻ってしまいます。 (「「フィンセント・ファン・ゴッホ | 名古屋市【愛知県青い鳥医療療育センター】」より)]
『泥炭湿原で働く女たち』1883年10月、ニーウ・アムステルダム。油彩(wikipedia-photo)
『泥炭舟と2人の人物』1883年10月、ドレンテ(wikipedia-photo)
『草を焼く農夫』1883年10月、ドレンテ(wikipedia-photo)
同年(1883年)12月5日、ファン・ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村(アイントホーフェンの東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、1884年1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古いオークの織機や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった。ピサロやモネなど明るい印象派の作品に関心を注ぐテオと、バルビゾン派を手本として暗い色調の絵を描くファン・ゴッホの間には意見の対立が生じた。
1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットはストリキニーネを飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなった。この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたファン・ゴッホは、再び父との争いを勃発させた。1885年3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。彼はテオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのは彼であり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した。
1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『ジャガイモを食べる人々』を完成させた。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、アカデミズム絵画を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ファン・ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った。
夏の間、ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、ミソサザイの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いたエミール・ゾラの小説『ジェルミナール』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する。一方、『ジャガイモを食べる人々』のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ファン・ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた。
同年(1885年)10月、ファン・ゴッホは首都アムステルダムの国立美術館を訪れ、レンブラント、フランス・ハルス、ロイスダールなどの17世紀オランダ(いわゆる黄金時代)の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ファン・ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の聖書と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『生きる歓び』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った。しかし、もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、11月、ニューネンを去らざるを得なくなった。残された多数の絵は母によって二束三文で処分された。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ニューネン(1883年末-1885年)より)]
カメラ東南東方向がニューネン「牧師館」で、右隣が「マルガレータ・ベーヘマンの家(Nune Ville)」です。「牧師館」のゴッホのアトリエは解体されています。
『ニューネンの牧師館』1885年9月-10月初頭(wikipedia-photo)
ニューネンの牧師館(左手)の庭。中央はファン・ゴッホ(30-32歳)が使っていたアトリエ小屋。(wikipedia-photo)
ニューネン「元改革派教会」
『雪の中のニュネンの牧師館の庭』1885年1月(wikipedia-photo)
古い教会の塔があったニューネンの墓地で、カメラ方向に案内標識があります。ファン・ゴッホの父テオドルス・ファン・ゴッホが埋葬されています。
『ニュネンの古い教会の塔』1884年5月(wikipedia-photo)
ニュネン近郊コレン「コルス水車」
『ニュネン近郊コレンの水車小屋』1884年5月(wikipedia-photo)
『オプウェッテンの水車小屋』
『オプウェッテンの水車小屋』1884年11月(wikipedia-photo)
『ヘネプの水車小屋』
『ヘネプの水車小屋』1884年11月(wikipedia-photo)
『開かれた聖書の静物画(Natura morta con Bibbia)』1885年10月、ニューネン(wikipedia-photo)
『ジャガイモを食べる人々』が描かれた家族が住んでいた農村の鳥瞰カメラです。カメラ南南東方向の家屋付近が家跡になるようです。カメラ北西方向にデ・ロースドンク風車が見えます。
カメラ北北西方向に『ジャガイモを食べる人々』の案内板があり、カメラ南南東方向が『ジャガイモを食べる人々』が描かれた家族が住んでいた家付近になります。
『ジャガイモを食べる人々』1885年4月-5月(wikipedia-photo)
(拡大画像へリンク)
1885年11月、ファン・ゴッホはベルギーのアントウェルペンへ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋を借りた。1886年1月から、アントウェルペン王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに出た。また、美術館やカテドラルを訪れ、特にルーベンスの絵に関心を持った。さらに、エドモン・ド・ゴンクールの小説『シェリ』を読んでそのジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買い求めて部屋の壁に貼った。
金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を画材とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ファン・ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した。また、アントウェルペンの頃から、アブサン(ニガヨモギを原料とするリキュール)を飲むようになった。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#アントウェルペン(1885年末-1886年初頭)より)
カメラ南方向 NO 224 がファン・ゴッホのアントウェルペンの居住地になります。
『雪の中のアントウェルペンの古い家の裏庭』1885年12月(wikipedia-photo)
『あごひげの老人の肖像』1885年12月、アントウェルペン(wikipedia-photo)
『青い服を着た女性の肖像』1885年12月、アントウェルペン(wikipedia-photo)
『火の付いたタバコをくわえた骸骨』1885年-1886年冬、アントウェルペン(wikipedia-photo)