フィンセント・ファン・ゴッホ(オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)-死(1890年7月))

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    1890年5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。
    ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めには、さらに『オーヴェルの教会』を描いた。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)より)

    ラヴー旅館前のカメラです。

    『オーヴェル町役場(La Mairie d’Auvers-sur-Oise le 14 juillet)』1890年7月14日、オーヴェル(wikipedia-photo)

    『わらぶき屋根の家々』1890年5月、オーヴェル(wikipedia-photo)

    『オーヴェルのガシェ医師の庭』1890年5月、オーヴェル(wikipedia-photo)

    『人物のいるオーヴェルの村の通りと階段』1890年5月末、オーヴェル(wikipedia-photo)

    『オーヴェルの城館のある日没の風景』1890年6月、オーヴェル(wikipedia-photo)

      
    『医師ガシェの肖像』1890年6月、オーヴェル(wikipedia-photo)

    『オーヴェルの教会』1890年6月、オーヴェル(wikipedia-photo)

    『ピアノを弾くマルグリット・ガシェ』1890年6月、オーヴェル(wikipedia-photo)

    夜の白い家』1890年6月、オーヴェル(wikipedia-photo)

    この頃、パリの弟テオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている。7月6日、ファン・ゴッホはパリを訪れた。ヨーによれば、アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、アルマン・ギヨマンも来るはずだったが、ファン・ゴッホは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない。ファン・ゴッホは、7月10日頃、オーヴェルからテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』)を描き上げたことを伝えている。また、ファン・ゴッホはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(手紙は残っていない)、7月22日、テオは兄に、(共同自営問題に関し)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送り、これに対しファン・ゴッホは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いている。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)より)

    『荒れ模様の空の麦畑』1890年7月、オーヴェル(wikipedia-photo)

      
    『カラスのいる麦畑』1890年7月、オーヴェル(wikipedia-photo)

      
    『ドービニーの庭』1890年7月、オーヴェル(wikipedia-photo)

     

    『丘沿いのわらぶき屋根の家々』1890年7月、オーヴェル=シュル=オワーズ(wikipedia-photo)

     
        
    木の根と幹』、1890年7月、(本作をファン・ゴッホの絶筆とする説がある。)
    ゴッホ最後の作品《木の根と幹》が描かれた場所を特定。「非常に信憑性高い」

    (拡大画像へリンク)

    1900年頃のポストカード、オーヴェル・シュル・オワーズのオービニー通り。撮影者不明。 2020年、美術史家ワウター・ファン・デル・フェーンは、この景色がゴッホが自殺前の最後の日に描いたものであることを発見した(木の根を描く)。視聴覚ドキュメンタリーを生み出した完全な研究には疑いの余地がありません。wikipedia-photo

    カメラ北西方向がゴッホ最後の作品《木の根と幹》が描かれた特定地になります。

    1890年7月27日の日曜日の夕方、オーヴェル=シュル=オワーズラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たポール・ガシェ医師は、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。
    テオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。……兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いている。
    テオは、同年(1890年)8月、兄の回顧展を実現しようと画商ポール・デュラン=リュエルに協力を求めたが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった一方、9月12日頃、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された。なお、ファン・ゴッホの当初の墓地(正確な位置は現在は不明)は15年契約であったため、1905年6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された。1914年4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、兄弟の墓石が並ぶことになった。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#死(1890年7月)より)]

    オーヴェルにあるファン・ゴッホ(左)とテオの墓(wikipedia-photo)

    ファン・ゴッホ(左)とテオの墓前のカメラです。