フィンセント・ファン・ゴッホ(サン=レミ(1889年5月-1890年5月))

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    1889年5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20キロ余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院(Monastère Saint-Paul-de-Mausole)療養所に入所した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いたてんかん発作を起こしやすい、と私は推定する。」と記録している。

    サン=ポール=ド=モーゾール修道院正門前のカメラです。

    ファン・ゴッホは、療養所の一室を画室として使う許可を得て、療養所の庭でイチハツの群生やアイリスを描いた。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、アルピーユ山脈の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出てオリーブ畑や糸杉を描くようになった。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と三日月に、S字状にうねる雲を描いた『星月夜』を制作した。彼は、『オリーブ畑』、『星月夜』、『キヅタ』などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている。一方、テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と懸念を伝えている。7月初め、ファン・ゴッホはヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑な心情も覗かせている。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#サン=レミ(1889年5月-1890年5月)より)

    『アイリス』1889年5月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『二本の糸杉』1889年6月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『星月夜』1889年6月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『オリーブ畑』1889年6月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『キヅタのある木の幹』1889年7月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている。9月初めには意識は清明に戻り、自画像、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『ピエタ』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた。また、ミレーの『野良仕事』の連作を模写した。ファン・ゴッホは、模写の仕事を、音楽家がベートーヴェンを解釈するのになぞらえている。以降、12月まで、ミレーの模写のほか『石切場の入口』、『渓谷』、『病院の庭の松』、オリーブ畑、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事などを描いた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#サン=レミ(1889年5月-1890年5月)より)

    『自画像』1889年8月末(wikipedia-photo)

    『麦刈る男』1889年9月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『サン=ポール病院の看護主任トラビュックの肖像』1889年9月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『サン=レミ近くの石切場の入口』1889年10月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『ピエタ(ドラクロワを模して)』1889年9月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『鎌で麦刈る人(ミレーを模して)』1889年9月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『渓谷』1889年10月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『サン=ポール病院の庭の木々』1889年10月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『サン=ポール病院の庭に立つ人物と松の木々』1889年11月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『オリーブ畑』1889年11月-12月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『プラタナス並木通りの道路工事』1889年12月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    1889年のクリスマスの頃、再び発作が起き、この時は1週間程度で収まった。1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた。1月31日にテオとヨーの間に息子(フィンセント・ヴィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って2月に『花咲くアーモンドの木の枝』を描いて贈ったり、ポール・ゴーギャンが共同生活時代に残したスケッチをもとにジヌー夫人の絵を描いたりして創作を続けるが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になった。4月、ペロン院長はテオに、ファン・ゴッホが「ある時は自分の感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わしげな様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復が遅れている様子を伝えている。また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#サン=レミ(1889年5月-1890年5月)より)

    『花咲くアーモンドの木の枝』1890年2月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    『アルルの女 (ジヌー夫人)』1890年2月、サン=レミ、クレラー・ミュラー美術館(wikipedia-photo)

    一方、ファン・ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていた。同年(1890年)1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せ、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの『ひまわり』、『果樹園』など6点が出品されて好評を博した。2月、この展覧会でファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』が初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に『渓谷』など10点がテオにより出品され、ゴーギャンクロード・モネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っている。
    体調が回復した5月、ファン・ゴッホは、カミーユ・ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにした。最後に『糸杉と星の見える道』を描いてから、5月16日サン=レミの療養所を退所した。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#サン=レミ(1889年5月-1890年5月)より)

    『糸杉と星の見える道』1890年5月、サン=レミ(wikipedia-photo)

    フィンセント・ファン・ゴッホ(オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)-死(1890年7月))