フィンセント・ファン・ゴッホ(パリ(1886年-1888年初頭))

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    フィンセント・ファン・ゴッホの生涯紹介サイト – 『「フィンセント・ファン・ゴッホ | 名古屋市【愛知県青い鳥医療療育センター】』

    1886年2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されている弟テオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通り(Rue Lepic)のアパルトマンに2人で転居した。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ファン・ゴッホの生活について分かっていないことが多い。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。もっとも、富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしなかった。オーストラリア出身のジョン・ピーター・ラッセルとは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはファン・ゴッホの肖像画を描いている。

    ジョン・ピーター・ラッセルによるファン・ゴッホの肖像画(1886年)(wikipedia-photo)

    [1886年春にフィンセント・ファン・ゴッホがレッスンを受けた芸術家フェルナン・コルモンのオープンスタジオで、オーストラリアの芸術家ジョン・ピーター・ラッセル(1858–1930)と知り合いになりました。 彼らは友達になり、ラッセルは Rue Pierre Ginier 15 の彼のアトリエでフィンセントの肖像画を描きました。 フィンセントの友人である芸術家 Archibald Standish Hartrick は、それが彼が知っている最高の肖像であり、自画像や他の芸術家の作品よりも優れていると述べました。フィンセントはその絵を所有し、それに深く愛着を持っていました。]

    1886年当時のパリでは、ピエール=オーギュスト・ルノワールクロード・モネカミーユ・ピサロといった今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭していた。この年開かれた第8回印象派展は、新印象派の画家たちで彩られ、この回をもって終了した。ファン・ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。また、画商ドラルベレットのところでアドルフ・モンティセリの絵を見てから、この画家に傾倒するようになった。カフェ・タンブランの女店主アゴスティーナ・セガトーリ(Agostina Segatori)にモデルを世話してもらったり、絵を店にかけてもらったり、冬には彼女の肖像(『カフェ・タンブランの女』)を描いたりしたが、彼女に求婚して断られ、店の人間とトラブルになっている。

    『カフェ・タンブランの女(アゴスティーニ・セガトーリ)』1887年2月-3月(wikipedia-photo)

    同居のテオとは口論が絶えず、1887年3月には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしている。他方、その頃から、ファン・ゴッホは印象派や新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになった。テオもこれを評価する手紙を書いている。同じくその頃、テオはブッソ=ヴァラドン商会で新進の画家を取り扱う展示室を任せられ、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、アルマン・ギヨマンといった画家の作品を購入するようになった。これを機に、エミール・ベルナールや、コルモン画塾の筆頭格だったルイ・アンクタントゥールーズ=ロートレックといった野心あふれる若い画家たちも、ファン・ゴッホ兄弟と親交を持つようになった。彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店も、若い画家たちの交流の場となっていた。

    セーヌ川のほとりで写真に写るベルナールとファン・ゴッホ(後ろ姿)。(wikipedia-photo)

    [二人の芸術家の間には親密な友情が生まれました。 彼らは一緒に絵を描き、役に立つと証明できる人々にお互いを紹介しました。 フィンセントはベルナールの仕事を賞賛し、ベルナールの相談相手のような役割を果たしました。彼らは頻繁にお互いを訪れ、ベルナールはルピック通りのファン・ゴッホ兄弟のアパートに立ち寄り、フィンセントはパリから少し離れたアニエールの 5 アベニュー・ド・ボーリュー(5 Avenue de Beaulieu, Asnières)にあるベルナールの家をよく訪れました、ベルナールは庭に小さなアトリエを持っていましたので、二人はしばしばそこで一緒に創作に励みました、例えばタンギーの肖像画を制作しています。]

    ファン・ゴッホは、プロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めた。1887年の「タンギー爺さん」の肖像画の背景の壁にいくつかの浮世絵を描き込んでいるほか、渓斎英泉の『雲龍打掛の花魁』、歌川広重の『名所江戸百景』「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している。

    『タンギー爺さん』1887年秋(wikipedia-photo)

    (拡大画像リンク)

    同年(1887年)11月、ファン・ゴッホはクリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、トゥールーズ=ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開いた。そして、モネやルノワールら、大並木通り(グラン・ブールヴァール)の画廊に展示される大家と比べて、自分たちを小並木通り(プティ・ブールヴァール)の画家と称した。ベルナールはこの展示会について「当時のパリの何よりも現代的だった」と述べているが、パリの絵画界ではほとんど見向きもされなかった。同月、ポール・ゴーギャンカリブ海マルティニークからフランスに帰国し、フィンセント、テオの兄弟はゴーギャンと交流するようになる。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#パリ(1886年-1888年初頭)より)

    パリに出たファン・ゴッホは、弟テオが住んでいたrue Victor Massé 25 の建物の部屋に住み込んだ。

    ファン・ゴッホと弟テオが転居したアパートメント。

    『ルピック通りのフィンセントの部屋からのパリの眺め』1887年春(wikipedia-photo)

    『モンマルトルの街の光景』1887年春(wikipedia-photo)

    『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1887年3月(wikipedia-photo)

    『モンマルトル:製粉所と野菜畑』1887年(commons.wikimedia)

      
    『アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ』1887年春(wikipedia-photo)

    『アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ(Restaurant de la Sirène à Asnières)』1887年夏(wikipedia-photo)

    『レストランの中』1887年6月-7月(wikipedia-photo)

    『アニエールのレストラン・リスパル』1887年夏(wikipedia-photo)

    『2本の切ったひまわり』1887年8月-9月(wikipedia-photo)

    『自画像(イーゼルの前のもの。画家としての自画像)』1888年初頭(wikipedia-photo)

      「フィンセント・ファン・ゴッホ(サン=レミ(1889年5月-1890年5月))