フィンセント・ファン・ゴッホ(出生-グーピル商会(1869年-1876年))

    下地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックすると、上地図がそのマーカーポイントにズームし、下地図にマーカーポイントの吹き出しが表示されます。吹き出しには、「Van Gogh Route」へのリンクが張り付けてあります。

    フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州ブレダにほど近いズンデルトの村で、父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス、1822年-1885年)と母アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819年-1907年)との間の長男として生まれた。父ドルスは、オランダ改革派の牧師であり、1849年にこの村の牧師館に赴任し、1851年、アンナと結婚した。ブラバントは、オランダ北部とは異なりカトリックの人口が多く、ドルス牧師の指導する新教徒は村の少数派であった。
    フィンセントという名は、テオドルス牧師の父でブレダの高名な牧師であったフィンセント・ファン・ゴッホ(1789年-1874年)からとられている。祖父フィンセントには、長男ヘンドリク(ヘイン伯父)、次女ドロアテ、次男ヨハンネス(ヤン伯父)、三男ヴィレム、四男フィンセント(セント伯父)、五男テオドルス(父ドルス牧師)、三女エリーザベト、六男コルネリス・マリヌス(コル叔父)、四女マリアという子があり、このうちヘイン伯父、セント伯父、コル叔父は画商になっている。
    父ドルス牧師と母アンナとの間には、画家フィンセントが生まれるちょうど1年前の1852年3月30日に、死産の子があり、その兄にもフィンセントという名が付けられていた。画家フィンセントの後に、妹アンナ(1855年生)、弟テオドルス(通称テオ、1857年生)、妹エリーザベト(1859年生)、妹ヴィレミーナ(通称ヴィル、1862年生)、弟コルネリス(通称コル、1867年生)が生まれた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#出生、少年時代(1853年-1869年)より)

    中央右寄りがファン・ゴッホの生家であるズンデルトの牧師館

    彼は、1853年3月30日にズンデルトのメインストリート「マルクト(Markt)26」にある小さな家で生まれました。老朽化して保存できなかったため、かつての家はなくなりましたが、この場所にある飾り板は今でも彼の誕生を記念しています。2007年5月、「マルクト26」の家とその隣の家の改修が始まりました。改装後、2008年8月にフィンセントファンゴッホの家がオープンしました。  (wikipedia・Zundertより)]

    オシップ・ザッキン作のフィンセント・ファン・ゴッホと弟テオドルス・ファン・ゴッホ像前のカメラで、カメラ左方向に元オランダ改革派教会(現ゴッホ教会・Van Goghkerkje (Zundert)) があります。

    ゴッホ教会のストリートビューです。

    フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた。1860年からズンデルト村の学校に通っていたが、1861年から1864年まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受けた。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる『農場の家と納屋』と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している。1864年10月からは約20km離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入った。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#出生、少年時代(1853年-1869年)より)

    『農場の家と納屋』1864年2月、素描。(wikipedia-photo)

    JanProvilyの寄宿学校(Stationsstraat 16, 4761 BS Zevenbergen, オランダ)

    JanProvilyの寄宿学校跡の現在のカメラです。

    1866年9月15日、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ヴィレム2世校(Koning Willem II School・現Willem II College)に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンス(Constant Cornelis Huijsmans)という画家がこの学校で教えており、ファン・ゴッホも彼から絵を習ったと思われる。1868年3月、ファン・ゴッホはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。その理由は分かっていない。本人は、1883年弟テオに宛てた手紙の中で、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いている。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#出生、少年時代(1853年-1869年)より)

    ヴィレム2世校跡に建つティルブルフ宮殿市庁舎

    1869年7月、セント伯父の助力で、ファン・ゴッホは画商グーピル商会ハーグ支店の店員となり、ここで約4年間過ごした。彼は、この時のことについて「2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった」と書いている。テオの妻ヨーによれば、この時上司のテルステーフはファン・ゴッホの両親に、彼は勤勉で誰にも好かれるという高評価を書き送ったというが、実際にはテルステーフやハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係はうまく行っていなかったと見られる。1872年夏、当時まだ学生だった弟テオがハーグのファン・ゴッホのもとを訪れ、職場でも両親との間でも孤立感を深めていたファン・ゴッホはテオに親しみを見出した。この時レイスウェイクまで2人で散歩し、にわか雨に遭って風車小屋でミルクを飲んだことを、ファン・ゴッホは後に鮮やかな思い出として回想している。この直後にファン・ゴッホはテオに手紙を書き、以後2人の間で書簡のやり取りが始まった。
    ファン・ゴッホは、ハーグ支店時代に、近くのマウリッツハイス美術館レンブラントフェルメールオランダ黄金時代の絵画に触れるなど、美術に興味を持つようになった。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ハーグ支店より)

    ゴッホは1869年(16歳)から1873年(20歳)まで勤めたグーピル商会ハーグ支店に勤めていますが、このカメラはグーピル商会ハーグ支店が1875年に Plaats 14 から移転した Plaats 20 前です。(「Goupil & Cie, The Hague, The Netherlands | Van Gogh Route」より)

    1873年5月、ファン・ゴッホはロンドン支店に転勤となった。表向きは栄転であったが、実際にはテルステーフやセント伯父との関係悪化、彼の娼館通いなどの不品行が理由でハーグを追い出されたものともいわれている。8月末からロワイエ家(Sarah-Ursula Loyer)の下宿に移った。ヨーの回想録によれば、ファン・ゴッホは下宿先の娘ユルシュラ・ロワイエ(Eugenie Loyer)に恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。そして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ユルシュラは下宿先の娘ではなくその母親の名前であることが分かっている。ファン・ゴッホ自身は、1881年のテオ宛書簡で「僕が20歳のときの恋はどんなものだったか……僕はある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した。」と書いているが、その相手は、ハーグで親交のあった遠い親戚のカロリーナ・ファン・ストックム=ハーネベーク(カロリーン)ではないかという説がある。いずれにしても、彼は、ロワイエ家の下宿を出た後、1874年冬頃から、チャールズ・スポルジョンの説教を聞きに行ったり、ジュール・ミシュレイポリット・テーヌの著作、またエルネスト・ルナンの『イエス伝』などを読み進めたりするうちに、キリスト教への関心を急速に深めていった。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ロンドン支店より)

    [1874年7月14日から、仕事を探すためにイギリスに来ていたフィンセントの妹アンナもロワイエ家の下宿に滞在しました。 8月中旬、二人はロンドンのケニントンロード295(295 Kennington Road)にあるジョン・パーカー(John Parker)と彼の妻が経営するツタに覆われた下宿に引っ越しました。フィンセントとアンナはよく一緒に歩きました。 アンナはそこの下宿に2週間滞在し、ウェルウィン(Welwyn)で仕事を見つけてそこに引っ越し、フィンセントは一時的にグーピル商会のパリ支店に移動させられました。フィンセントは1875年1月にロンドンに再度戻ったとき、彼はこの下宿に戻ってきました。]

    ロンドン二番目の下宿-ロワイエ家(Sarah-Ursula Loyer)(ブルー・プラークA History of 87 Hackford Road – Van Gogh House London) – 1873年5月、ファン・ゴッホはイギリスロンドンのサウサンプトン・ストリート(Southampton Street, London)17番地にあるグーピル商会のロンドン支店に転勤となり、最初の下宿は住所が不明ですが、二番目の下宿としてストックウェル(Stockwell)の87ハックフォードロード(87 Hackford Road)に部屋を借りました。
    カメラ東北東方向がVan Gogh’s Houseです。

    87 Hackford Road (Van Gogh)
    ロンドンで働いていたときに二番目の下宿として住んでいた家のファン・ゴッホによる初期の絵で、1973年に彼の作品として認められました。
    [1973年、ゴッホに関する記事を調査しているときに、ジャーナリストのケンウィルキーは、イギリスのデボン(Devon)にある自宅に、ユージェニー(Eugenie)の孫娘であるキャスリーン・メイナードを訪ねました。彼女が彼にロイアーと彼らの家の写真を見せている間、彼は写真が保管されていた箱の中にほこりっぽい、お茶またはコーヒーで汚れた絵に気づきました。メイナードは、父親が「私の(メイナードの)祖母の宿舎の1人」によって描かれたものであり、「私が覚えている限り、屋根裏部屋に置いてあった」と言ったことを思い出しました。  (wikipedia・87 Hackford Road (Van Gogh)より)]

    [フィンセントには仕事への情熱は湧いてきません。それどころか、画商という仕事に根本的疑問を感じるようになり、仕事場で投げやりな態度を見せるようになります。困惑したロンドン支店長はセント叔父に相談、セント叔父はフィンセントの両親と協議します。そして、どうやら失恋が原因らしいということになり、フィンセントをパリ支店に移して「ほとぼりを冷まさせる」ことにしました。こうして、フィンセントは1874年10月、パリの商会に転勤となります。しかし、残念ながら「ほとぼりは冷め」ませんでした。それどころか、無理やりパリに転勤させられたことでフィンセントはつむじを曲げてしまいました。結局、同年の12月末近く、かれの強い要望でロンドン勤務にもどることになります。しかし、自分から望んだ割にはフィンセントの勤務態度は改まりませんでした。渋々出社はしますが、明らかに心ここにあらずという態度をとり、仕事から戻ると、憑かれたように聖書を読みふける毎日です。「はじめてかれは変人といわれるようになった。素描の熱もさめてしまった」とヨハンナは書いています。フィンセントの精神状態があまりにひどいので、セント叔父は再び両親と協議し、これ以上ロンドンにおいておくわけにはいかないという結論に達します。こうして、1875年5月、フィンセントは再びパリ勤務を命じられます。  (『「フィンセント・ファン・ゴッホ | 名古屋市【愛知県青い鳥医療療育センター】』より)]

    1875年5月、パリ本店に転勤となった。同じパリ本店の見習いで同宿だったハリー・グラッドウェルとともに、聖書やトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に読みふけった。他方、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事には反感を募らせた。この頃、父は、フィンセントには今の職場が合わないようだとテオに書いている。翌1876年1月、彼はグーピル商会から4月1日をもって解雇するとの通告を受けた。解雇の理由の一つは、ファン・ゴッホが1875年のクリスマス休暇を取り消されたにもかかわらず無断でエッテンの実家に帰ったことともいわれる。この事件は両親に衝撃と失望を与えた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#パリ本店、解雇より)

    《旧グーピル商会跡》(散歩R(20-5) 旧グーピル商会跡 L’ancien siège et la galerie de …)

    『エッテンの牧師館と教会』1876年4月(wikipedia-photo)
    グーピル商会を解雇された23歳のファン・ゴッホは、イギリスに発つ前、エッテンの実家に立ち寄り、家族に別れを告げた。

    カメラ北北西方向がエッテンの元オランダ改革派教会(現ファン・ゴッホ教会)で、そこの左側に牧師館があったことになり、現在その場所にゴッホ像があります。(Site of the vicarage with Vincent’s first studio.)

    エッテン-ファン・ゴッホ教会前のゴッホ像(Google Map 画像)

       「フィンセント・ファン・ゴッホ(聖職者への志望(1876年-1880年))