1876年4月、ファン・ゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートの港を見下ろす、ストークス氏の経営する小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなった。ここで少年たちにフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えた。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイズルワースに移ることとなり、彼はアイズルワースまで徒歩で旅した。しかし、伝道師になって労働者や貧しい人の間で働きたいという希望を持っていた彼は、ストークス氏の寄宿学校での仕事を続けることなく、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをしたりした。ジョージ・エリオットの『牧師館物語(Scenes of Clerical Life)』や『アダム・ビード(Adam Bede)』を読んだことも、伝道師になりたいという希望に火を付けた。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#イギリスの寄宿学校より)
カメラ初期設定方向、ブルー・プラークがファン・ゴッホのラムズゲートの居住地になります
ラムズゲート・ストークス寄宿学校
Royal Road, Ramsgate(1876年)
アイズルワース・ストークス寄宿学校付近のカメラです。
[1876年の春、ヴィンセントはウィリアムポートストークス(1832年から1890年頃)が運営するラムズゲートの男子校で働きました。 学校がアイズルワースに移ったとき、フィンセントはそれに続きました。 しかし、引っ越しからわずか2週間後、彼はアイズルワースの組合教会で、助教として働いているより高給の仕事を見つけました。ストークスは明らかにフィンセントを失ったことを後悔している。彼が去るつもりだと聞いたとき、彼は彼に少額の給料を提供した(彼は以前は部屋と食事だけを約束していた)。]
アイズルワース・組合教会前のカメラです。
1876年のクリスマス、ファン・ゴッホはエッテンの父の家に帰省した。聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要であり、無理だという父ドルス牧師の説得を受け、翌1877年1月から5月初旬まで、南ホラント州ドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働いた。しかし、言われた仕事は果たすものの、暇を見つけては聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していたという。また、この時の下宿仲間で教師だったヘルリッツは、ファン・ゴッホは食卓で長い間祈り、肉は口にせず、日曜日にはオランダ改革派教会だけでなくヤンセン派教会、カトリック教会、ルター派教会に行っていたと語っている。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ドルトレヒトの書店より)
ドルトレヒトのスヘッフェルス広場。左から3軒目がブリュッセ&ファン・ブラーム書店。(wikipedia-photo)
2019年のドルトレヒトのスヘッフェルス広場。
[ファン・ゴッホは、ますます聖職者になりたいという希望を募らせ、受験勉強に耐えることを約束して父を説得し、その為に、アムステルダム大学の神学部を目指すことになりました。しかし、入学資格を得るには、2年間予科に通って、ギリシャ・ラテン語を習得して、試験を受けなければなりませんでした。そこで、海軍副提督で、海軍造船所長だったヤン叔父さんがゴッホに部屋を提供して、もう一人の叔父、母の姉の夫ヨハネス・ストリッケル牧師が勉強の監督をすることになりました。
しかし、彼は受験勉強の重圧に耐えきれず、夏には受験そのものを断念してしまいました。それでも聖職者への道をあきらめきれなかったゴッホは、7月に、イギリス時代の上司で、たまたま両親が住むエッテンに滞在していたジョーンズ牧師と父に付き添われて、ベルギーの宣教師委員会のメンバーを訪ねて歩き回り、活路を探りました。
幸いこの努力が実を結んで、ゴッホは、ブリュッセルの中心部のサン・カトリーヌ広場にあった、生徒がたった3人という小さな伝道師学校に、授業料無料という好条件で入学が認められました。彼は下宿代と食費のみを自己負担することになりました。
しかし、神学の勉強は思ったようにはかどらず、その上、彼の異常でヒステリックな言動に、他の二人の生徒と教師だったボクマ牧師が非常に心配していました。当時の同級生は「彼は全く従順さと言うものを知らなかった。彼自身、風変わりな店の中の猫のように感じていたはずだ」と回想しています。
そして3か月間の、いわば「試用期間」が過ぎた時、授業料免除の特待生としての待遇がなくなり、彼は経済的にも精神的にも耐えられなくなって、学校をやめて、自ら南部モンス近郊の、炭鉱地帯(ボリナージュ)に自らフリーの伝道師として行く決意を固めました。 (「5月号 – ベルギー日本人会-『西欧絵画の楽しみ方 83 「炭鉱カフェ」 ゴッホ』 – ベルギー王立美術館公認解説者 森 耕治 」より)]
カメラ東南東方向・聖カトリーヌ教会角にゴッホ記念碑があります。
[モンスでの欧州文化首都の行事に合わせて、2015年2月、ブリュッセルの下町、サント・カトリーヌ広場にゴッホ記念碑が建てられた。
プロテスタントの牧師をめざしたゴッホだが、オランダでの教育・実習ではあまり良い成績をあげなかった。そのため、1878年、ブリュッセルのサント・カトリーヌ広場近くにあったプロテスタントの教会で、8月から11月の4ヶ月間指導を受けた。その後ゴッホはモンスのボリナージュへ説教師として旅だったわけだ。
ブリュッセル市は、偉大な画家になったゴッホへのオマージュとして、サント・カトリーヌ広場に建つサント・カトリーヌ教会の前庭に記念碑を建てた。ゴッホは市の北にある運河近くの寄宿舎からここまで通って来たそうだ。ゴッホも歩いた広場は、今も当時と変わらない佇まいである。 (「ゴッホ碑 2015年5月 – bonappetitonline !ボナペティオンライン」より)]
1878年12月、ゴッホはベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方(モンス近郊)に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。1879年1月から、熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった。しかし、苛酷な労働条件や賃金の大幅カットで労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こる炭鉱の町において、社会的不正義に憤るというよりも、『キリストに倣いて』が教えるように、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたオランダ人伝道師は、人々の理解を得られなかった。教会の伝道委員会も、ファン・ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、ファン・ゴッホがその警告に従うことを拒絶すると、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られた。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ボリナージュより)
『炭鉱カフェで』1878年、ボリナージュ(commons.wikimedia)
伝道師としての道を絶たれたファン・ゴッホは、同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方のクウェム(モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないファン・ゴッホに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判された。1880年3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親がヘールの精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った。
クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからファン・ゴッホへの生活費の援助が始まった。また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ファン・ゴッホは本格的に絵を描くことを決意したようである。9月には、北フランスへの苦しい放浪を振り返って、「しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いていた鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた。」と書いている。ジャン=フランソワ・ミレーの複製を手本に素描を練習したり、シャルル・バルグのデッサン教本を模写したりした。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ボリナージュより)
[フィンセントは、以前から尊敬していた画家、ブルトンを訪ねて北フランスのクーリエールにむかいます。クーリエールでなにかしら仕事が見つかるかもしれないという漠然とした期待もあったようです。手元には10フランしかなく、真冬の雪の中、国境を越えて70キロ、一週間歩き続ける旅でした。ブルトンはロマンチックな農民の絵で有名な画家で、フィンセントはブルトンが農民のようなつつましい生活をしているものと勝手に想像していたようです。ところが、ブルトンの家に到着して目にしたのは厳めしい煉瓦作りのアトリエでした。フィンセントは気後れがし、この「お城」に足を踏み入れる気力が失せ、そのままボリナージュに引き返してしまいます。帰り道は無一文で、足に傷を作り、疲労困憊し、荷馬車や薪の束の上で野宿しながらの悲惨な旅でした。 (『「フィンセント・ファン・ゴッホ | 名古屋市【愛知県青い鳥医療療育センター】』より)]
フランク(左)とドゥクリュク(右)の家/作者不詳
[住所 Rue du Pavillon 5 はもう存在しませんが、フィンセントも住んでいた隣接する建物はそのままです。その家には現在、ボリナージュでのフィンセントの時代に捧げられた博物館、メゾン・ファン・ゴッホ(Maison Van Gogh)があります。
1880年、ファン・ゴッホ(当時27歳)がクウェムで暮らした家。ここにいる時に彼は画家となることを決めた。
カメラ南西方向がVan Gogh House(Maison Van Gogh)です。
[1880年10月、当初、坑夫たちの生活を描いて「ボリナージュのミレー」になることを目指していたフィンセントでしたが、デッサンの腕を上げるためには、ボリナージュで独学していても何ともなりません。またもや徒歩で、こんどはブリュッセルに移動します。
ブリュッセルを選んだのは、「立派な作品」をたくさんみることができるからでした。さらに、グーピル商会ブリュッセル支店長のシュミットを訪ね、助言も求めました。シュミットはフィンセントに美術学校にはいることを薦めてくれました。しかし、フィンセントはいまひとつ気乗りがしません。
かわりに、フィンセントにとっては最適の人物をテオが紹介してくれました。パリで修行した後、ブリュッセル王立美術アカデミーでも絵の勉強を続けていた画家志望の青年、アントン・ファン・ラッパルトでした。ラッパルトは裕福な貴族の息子で、フィンセントより5歳年下でした。内気な性格でしたが、フィンセントとはウマがあったようです。フィンセントの死後、かれはフィンセントの母親に「この力戦苦闘する痛ましい人物を目にした者はだれでも、自分自身にあまりに多くを要求してそれがために身も心も滅したこの人に対する同情を感ぜざるをえませんでした。かれは大芸術家の種族に属していました」と書いています。フィンセントはこのラッパルトの画室をときどきたずね、芸術に関する議論を交わしました。パリでも勉強してきていますから、絵画の腕前はラッパルトの方が圧倒的に上だったはずです。しかし、議論の主導権を握るのはフィンセントだったようです。ずっと孤独な生活を余儀なくされてきたフィンセントにとって、久しぶりに、話し相手ができて、心休まる日々でした。
フィンセントは当時の標準的教科書だったバルグの「デッサン教則本」を参考に猛烈な勢いでデッサンの勉強を続けました。しかし、ラッパルトの通うアカデミーには入学しませんでした。代わりに独学で解剖学を勉強し、ブリュッセルで知り合った貧乏画家から安い授業料で遠近法を教えてもらいました。冬が来て再び「くしゃくしゃする(No 140. 1881年1月)」ときがたまに襲ってくるため、テオに手紙でくってかかることもありましたが、この年は何とか乗り越えました。
春になるとラッパルトは田園風景を描くためにブリュッセルを旅立っていきました。一方、フィンセントはブリュッセルにやってきた父親から、ずいぶん前からテオが密かにフィンセントを援助してくれていて、父親からの援助だと思っていたお金のほとんどもテオからでたものであっことを知らされます。ブリュッセルでの生活にはかなりお金がかかりますし、なるべくテオへの負担を減らしたいと思ったのでしょう、フィンセントは再びエッテンの両親の元に戻ります。 (『「フィンセント・ファン・ゴッホ | 名古屋市【愛知県青い鳥医療療育センター】』より)]