オテル・ド・ロアン

マーカーはオテル・ド・ロアンです。

オテル・ド・ロアン(Hôtel de Rohan)
[オテル・ド・ロアン はアルマン・ガストン・マクシミリアン・ド・口アン(Armand Gaston Maximilien de Rohan)が、建築家ピエール・アレクシス・ドラメール(Pierre-Alexis Delamair)に委託し、就任したストラスブールの司教館として、現在の国立公文書館の一部となっている口アン家邸宅オテル・ド・スービーズ(Hôtel de Soubise)に隣接して1705年から建設されました。 この建物は1924年11月27日以来の歴史的建造物としての分類の対象になっています。
1749年アルマン・ガストン・マクシミリアン・ド・口アンの死後、ストラスブール司教の3枢機卿は、この館に連続住んでいました。最後の住人となった、ルイ・ド・ロアン枢機卿は、この館で「首飾り事件」の被害にあっています。
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[Archives nationales – Hôtel de Rohan – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向がオテル・ド・ロアン入口門です。

首飾り事件
[首飾り事件(仏: Affaire du collier de la reine)は、1785年、革命前夜のフランスで起きた詐欺事件。ヴァロワ家の血を引くと称するジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人が、王室御用達の宝石商ベーマーから160万リーブル(金塊1t程度に相当するが、現代日本円の感覚ではおよそ30億円)の首飾りをロアン枢機卿に買わせ、それを王妃マリー・アントワネットに渡すと偽って騙し取った。典型的なかたり詐欺。
ラ・モット伯爵夫人は、王妃マリー・アントワネットの親しい友人だと吹聴してルイ・ド・ロアン枢機卿に取り入り、王妃の名を騙り金銭を騙し取っていた。
宮廷司祭長の地位にあったロアン枢機卿は、ストラスブールの名家出身の聖職者でありながら、大変な放蕩ぶりでも知られていたためマリー・アントワネットに嫌われていた。だが枢機卿は諦めることなく、いつか王妃に取り入って宰相に出世する事を望んでいた。
宝石商シャルル・ベーマーとそのパートナーであるポール・バッサンジュは、先王ルイ15世(在位:1715年 – 1774年)の注文を受け、大小540個のダイヤモンドからなる160万リーブルの首飾りを作製していた。これはルイ15世の愛人デュ・バリー夫人のために注文されたものだったが、ルイ15世の急逝により契約が立ち消えになってしまった。高額な商品を抱えて困ったベーマーはこれをマリー・アントワネットに売りつけようとしたが、高額であったことと、敵対していたデュ・バリー夫人のために作られたものであることから購入を躊躇した。そこでベーマーは王妃と親しいと称するラ・モット伯爵夫人に仲介を依頼した。
ラ・モット伯爵夫人はこの首飾りの詐欺を計画した。1785年1月、伯爵夫人はロアン枢機卿にマリー・アントワネットの要望として首飾りの代理購入を持ちかけた。伯爵夫人は、前年の夏、娼婦マリー・ニコル・ルゲイ・デシニー(後に偽名「ニコル・ドリヴァ男爵夫人」を称する)を王妃の替え玉に仕立て、ロアン枢機卿と面会させており、彼は念願の王妃との謁見を叶えてくれた人物として、伯爵夫人を完全に信用していた。ロアン枢機卿は騙されて首飾りを代理購入しラ・モット伯爵夫人に首飾りを渡した。
その後首飾りはバラバラにされてジャンヌの夫であるラ・モット伯爵(及び計画の加担者達)によりロンドンで売られた。しばらくして首飾りの代金が支払われないことに業を煮やしたベーマーが、王妃の側近に面会して問い質した事により事件が発覚した。同年8月、ロアン枢機卿とラ・モット伯爵夫人、ニコル・ドリヴァは逮捕された。ラ・モット伯爵夫人はこの時、ロアン枢機卿と懇意であったが事件とは無関係とされる医師(詐欺師)カリオストロ伯爵を事件の首謀者として告発し、カリオストロ伯爵夫妻も逮捕された。なおラ・モット伯爵はロンドンに逃亡して逮捕されなかった。
事件に激昂したマリー・アントワネットは、パリ高等法院(最高司法機関)に裁判を持ちこんだ。1786年5月に判決が下され、ロアン枢機卿はカリオストロ伯爵夫妻、ニコル・ドリヴァとともに無罪となり、王妃と愛人(レズビアン)関係にあると噂されたラ・モット伯爵夫人だけが有罪となった。彼女は「V」の文字を両肩に焼き印されて投獄された。
この裁判によりマリー・アントワネットはラ・モット伯爵夫人と愛人関係にあるという事実無根の噂が広まった。伯爵夫人はこの虚偽の醜聞をもとに後に本を出版し金銭を得ている。
フランスでは、この事件は事実に反して王妃の陰謀によるものとして噂になり、マリー・アントワネットを嫌う世論が強まった。また国王ルイ16世(在位:1774年 – 1792年)は判決直後、無罪となったロアン枢機卿を宮廷司祭長から罷免、オーヴェルニュシェーズ・ディユ大修道院に左遷し国民の反感を買った。但し、ロアン枢機卿はもともと評判の悪い堕落した聖職者だったが、彼の左遷を批判した多くの人々はそれを知らなかった。こういった経緯から、首飾り事件をフランス革命の契機の1つとする後述のような作家もいるが、フランス革命は、王妃マリー・アントワネットの不人気とは全く関係ないところで勃発しており、拡大解釈でフィクションといってよい。
史実において事件は、ほとんど世間に出ていなかったマリー・アントワネットの評判を決定的に貶めただけで、彼女の非業の死と関係するのみであった。  (wikipedia・首飾り事件より)]

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