オテル・ランベール

マーカーはオテル・ランベールです。

オテル・ランベール(hôtel Lambert)
[オテル・ランベールは富豪の公証人ジャン=バティスト·ランベール(Jean-Baptiste Lambert) の私邸として、後年ヴェルサイユ宮殿の増築設計にかかわった ルイ・ル・ヴォー(Louis_Le_Vau・1612年 – 1670年)が30歳未満での設計で1640年に着工し、1644年に完成しました。ランベールはサン·ルイ島にある14以上の家を所有していました。
その後さまざまな所有者を経て、ポーランド独立派の活動拠点となります。
1830年のロシアからの独立を目指したポーランドでは十一月蜂起に敗北し、貴族層を中心に約1万人もの人々がフランスに亡命した(「大亡命」)。 1832年2月25日、アダム・イエジィ・チャルトリスキ(Adam Jerzy Czartoryski)はイギリスに亡命し、その後イギリスからフランスに移り、パリの「オテル・ランベール」を拠点として、ポーランド国家復活を目指します。こうして結成されたポーランド独立派のうち、チャルトリスキら大貴族層を中心とする立憲君主制を志向する一派をオテル・ランベール派と呼びました。
オテル・ランベールには、1831年からパリに定住した作曲家のフレデリック・ショパンなど、多くの文化人たちの交流の場となります。ショパンが1849年に死去した時、10月30日にパリのマドレーヌ寺院ペール・ラシェーズ墓地で行われた彼の葬儀において、チャルトリスキが葬儀委員長を務めています。
1843年にオテル・ランベールは175,000フランでチャルトリスキの妻、アンナ・ゾフィア・Sapieha(Anna Zofia Sapieżanka)によって購入されました。
チャルトリスキ家の家督は息子のヴワディスワフ・チャルトリスキ(クラクフチャルトリスキ美術館の創設者)が引き継ぎます。ヴワディスワフは一族の根城であるオテル・ランベールを拠点に政治活動を展開します。1863年にポーランドで1月蜂起が起きると、彼は蜂起の指導者たちが樹立した国民政府の外交交渉役を務め、イングランド、イタリア諸国、スウェーデン、トルコの諸政府に蜂起への支援を要請したが、蜂起は翌1864年に鎮圧されてしまいます。ヴワディスワフ・チャルトリスキの息子アウグスト・チャルトリスキサレジオ会修道士となるが、1893年34歳で亡くなり、2004年に列福されています。
オテル・ランベールの現在の所有者はカタール王室です。
1862年フランス歴史的建造物に指定されています。
セーヌ川からランベール邸を望む・wikipedia-photo、「ランベール邸のヘラクレスの間 – バーナード·ピカール(Bernard Picart)による彫刻。」・wikipedia-photo、「フランソワ·ル·ヴォーの設計平面図」・wikipedia-photo、断面図・wikipedia-photo、「ランベール邸でのフレデリック・ショパンポロネーズTeofil Kwiatkowski画」・wikipedia-photo、2013年7月10日の火災消火後の状況・wikipedia-photo、20世紀前半のランベール邸の写真・wikipedia-photo]

ランベール館 – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向が改修中のオテル・ランベールです。

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