シテ島

マーカーはシテ駅口です。

シテ島(フランス語 : Île de la Cité
[シテ島は、サン=ルイ島と並ぶ、パリの中心部を流れるセーヌ川の中州である。パリ市内で最も古い歴史をもつパリ1区及び4区に属し、“パリ発祥の地”とも称される。ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』では、すでに紀元前1世紀にパリシイ族 (Parisii) が住んでいたことが述べられている。
シテ島にはノートルダム大聖堂とその向かいにパリ警視庁があり、その脇にオテル・デュー・ド・パリがある。文字通り訳せば、「パリの神の館」になるが、パリ市民病院のこと。旅の病人を宿泊させ、病になれば看病した教会、巡礼教会からの発展の名残である。近代外科医学の開拓者で、床屋医者の出身でもある外科医アンブロワーズ・パレが勤務していた病院としてもその名が知られている。
また、この島はとても狭いので、ここの住民たちは夜も一定の時間を過ぎるとトイレの水は流さない等、互いに気配りしつつ一緒に住んでいくことの不便さを味わってきた。ここから「シテ島に住む者」を表す古仏語 citeain (現代仏語シトワイヤン citoyan 、現代英語シティズン citizen)の意味が転じ、市民という言葉が成立したという(仏語 cité は英語の city に相当する)。

9世紀のシテ島の地図

1739年頃のシテ島

シテ島ポンヌフ橋の夜明け・wikipedia-photo

ポンヌフにあるアンリ 4 世の像・wikipedia-photo

シテ島ノートルダム大聖堂(2013年8月画像)・wikipedia-photo

ウィキメディアコモンズには、シテ島の画像またはその他のファイルが含まれています。    (wikipedia・シテ島より)]

[セーヌ川の中洲シテ島は古くからセーヌ川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。紀元前1世紀、ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(リュテス円形闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場・闘技場の遺跡(アレーヌ・ド・リュテス)や浴場跡(クリュニー中世美術館)が残っている。しかし、ローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。  (wikipedia・パリより)]

[現在では観光名所として名高いノートルダム大聖堂などがあるセーヌ川の中州に位置するシテ島は、19世紀当時においては貧民層が集まっていたが、ここも皇帝ナポレオン3世[フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 – 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 – 1870年)]とともにセーヌ県知事のジョルジュ・オスマンが実施した都市整備事業によって改善され、パリの清潔な空間の一部となった。  (wikipedia・パリ改造より)]

カメラ位置はルイ・レピーヌ広場で、カメラ北北東方向にパリ地下鉄シテ駅口があります。

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