チェルヌスキ美術館

マーカーはチェルヌスキ美術館です。

チェルヌスキ美術館(英語:Musée Cernuschi、フランス語:Musée Cernuschi)
[イタリア出身のアンリ(エンリコ)・チェルヌスキ(Henri Cernuschi・1821-1896)は、1848年にミラノオーストリア帝国による占領から解放した3人の英雄のうちの1人です。ローマ共和国(1848-49)の議員に選出された後、短命に終わった共和国の崩壊に際してフランスへ亡命します。彼のパリでの再出発は、最初こそ困難なものではありましたが、とりわけ1865年に『交換の仕組み』を出版して以降、徐々に経済学者としての評判を確立し、投資家へのアドバイスや様々な事業への参入によって、第二帝政が終焉する頃には200万フランと見積もられる財を成すにいたりました。
共和主義思想を擁護するため、彼は新聞「ル・シエークル」を買い取り、1869年の帝政への国民投票に反対します。スイスに追放処分を受けながらも、ガンベッタに第二帝政の崩壊を予告されると彼は直ちにパリに戻り、1870年9月4日、パリ市庁舎での第三共和政の設立宣言の場に立ち会いました。その後、大臣エマニュエル・アラゴ(1812-1896)は、チェルヌスキのフランスへの帰化を承認しました。
パリ・コミューンという劇的な出来事に深く衝撃を受けたチェルヌスキは、1871年9月から1873年1月まで、美術批評家テオドール・デュレ(1838-1927)を伴って、東洋周遊の旅に出ます。日本と中国での滞在中に買い集めた約4000点におよぶ美術品が、後の彼のコレクションの中核を成すことになります。帰国後、当時にあっては例をみなかったこの東洋美術コレクション(とりわけ銅器)は衆目を集め、パリの産業館で開かれた東洋博覧会(1873年8月-1874年1月)にて展示されました。
同じ頃、アンリ・チェルヌスキは、ヴェラスケス大通りに残っていた最後の一区画をペレール兄弟から買い取り、建築家ウィリアム・バウエンス・ファン・デル・ボイエンに依頼して私邸を築き、東洋周遊から持ち帰った美術品に囲まれて暮らします。
アンリ・チェルヌスキは1896年にマントンで逝去し、彼の個人邸宅と東洋美術コレクションはパリ市に遺贈されました。
チェルヌスキ美術館は1898年10月26日に開館しました。  (「美術館について | Musée Cernuschi」より)]

チェルヌスキ美術館 (パリ市立アジア芸術美術館)

チェルヌスキ美術館ホームページ

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カメラ南南東方向がチェルヌスキ美術館です。