ムーラン・ラデ

マーカーはムーラン・ラデです。

ムーラン・ラデ
[ムーラン・ド・ラ・ギャレットとともに、モンマルトルに現存する2つの風車のうちのひとつ。 (wikipedia・18区_(パリ)より)]

[モンマルトルに生き残る2つの風車は時代の変遷を見守ってきた。かつて、それぞれは別の名前を持っていて、粉を挽くという風車本来の役割を果たしてい。 「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」という名前になったのは19世紀後半。2つの風車、ウサギなどの家畜小屋、ダンスホール、キャバレー、庭、それら全体を指してこう呼ばれていた。丘をのぼっていくと目に飛び込んでくる風車が、1622年に建てられたブリュット・ファン。粉屋の息子が建てた風車だその後、所有者が次々と変わり、悲しいもめごとを目にすることもあった。
50メートルほど坂をのぼるともうひとつの風車がある。1717年にできたラデ。ブリュット・ファンを借りていた粉屋が建設した。全盛期をフル稼働して、70年後、デゥブレ一家の手に渡ると風車の運命が変わりはじめる。初めは、牛乳とパンがセットで売られ、その粉を挽くために風車が使われた。と ころが、1814年のプロシア侵攻後、経済状況が悪化する。デゥブレ一家は、牛乳の代わりにワインを売るようにな り、風車ラデをキャバレーに変えた。客は、ワインとパンに舌鼓をうち、ポルカ を踊って楽しんだ。1879年、5代目のデゥブレが2つの風車を引き継ぐ。ブリュット・ファンもダンスホールに生まれ変わり、本来の役目を終える。風車は、翼の動かすことを止め、出入りする人々を見つめてきた。
ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」とづけられた風車のダンスホールは、多くの画家が作品を残している。ロートレックゴッホのほかに、ピカソユトリロルノワール。彼らは、ダンスホールに頻繁に通って飲食し、踊り、モデルを探した。
丘の下にできた赤い風車のキャバレーが客を増やしていく一方で、本物の風車がシンボルの「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャット」は次第に客足が遠のき、消滅の機にさらされる。ミュージック・ホール、テレビ局のスタジオなどに姿をかえ、レストランとなって現在に至る。風車そのものは、地元の有志たちに守られ、修復された。
この2つの風車の歴史はまだまだ続く。これからも、丘の上からモンマルトルを見守り続けるだろう。  (「ロートレックとモンマルトルの風車」より)]

ムーラン・ド・ラ・ギャレット – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向がムーラン・ラデ(レストラン「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」)です。

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