ムーラン・ド・ラ・ギャレット

マーカーはギャレットの風車です。

ムーラン・ド・ラ・ギャレット
[ムーラン・ド・ラ・ギャレット(Moulin de la galette)は、フランスモンマルトルに位置する、「ギャレットの風車」の名を持つダンスホールである。元々はナポレオンが没落した1814年に、モンマルトルの人々が外国軍に対して抵抗活動をするための本拠地であった。しかしフランス第二帝政時代に田舎造りのダンスホールに改造された。現在もそれ自体は残るものの、20世紀初期に改装工事が行われ、大ホールが建てられたため、当時の風車小屋の名残をとどめているのは入口のみである。ここは労働者や洋裁店の女性店員、お針子、モデル、多くの画家も集まった。さらに後の時代にはフランシス・カルコやローラン・ドルジュレスによって物語が創作された。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」・wikipdia-photoルノワールによる絵画『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』876年 オルセー美術館所蔵・wikipdia-photoゴッホによる絵画『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1886年 ベルリン新美術館所蔵・wikipdia-photo  (wikipedia・ムーラン・ド・ラ・ギャレットより)]

[モンマルトルに生き残る2つの風車は時代の変遷を見守ってきた。かつて、それぞれは別の名前を持っていて、粉を挽くという風車本来の役割を果たしてい。 「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」という名前になったのは19世紀後半。2つの風車、ウサギなどの家畜小屋、ダンスホール、キャバレー、庭、それら全体を指してこう呼ばれていた。丘をのぼっていくと目に飛び込んでくる風車が、1622年に建てられたブリュット・ファン。粉屋の息子が建てた風車だその後、所有者が次々と変わり、悲しいもめごとを目にすることもあった。
50メートルほど坂をのぼるともうひとつの風車がある。1717年にできたラデ。ブリュット・ファンを借りていた粉屋が建設した。全盛期をフル稼働して、70年後、デゥブレ一家の手に渡ると風車の運命が変わりはじめる。初めは、牛乳とパンがセットで売られ、その粉を挽くために風車が使われた。と ころが、1814年のプロシア侵攻後、経済状況が悪化する。デゥブレ一家は、牛乳の代わりにワインを売るようにな り、風車ラデをキャバレーに変えた。客は、ワインとパンに舌鼓をうち、ポルカ を踊って楽しんだ。1879年、5代目のデゥブレが2つの風車を引き継ぐ。ブリュット・ファンもダンスホールに生まれ変わり、本来の役目を終える。風車は、翼の動かすことを止め、出入りする人々を見つめてきた。
ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」とづけられた風車のダンスホールは、多くの画家が作品を残している。ロートレックゴッホのほかに、ピカソユトリロルノワール。彼らは、ダンスホールに頻繁に通って飲食し、踊り、モデルを探した。
丘の下にできた赤い風車のキャバレーが客を増やしていく一方で、本物の風車がシンボルの「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャット」は次第に客足が遠のき、消滅の機にさらされる。ミュージック・ホール、テレビ局のスタジオなどに姿をかえ、レストランとなって現在に至る。風車そのものは、地元の有志たちに守られ、修復された。
この2つの風車の歴史はまだまだ続く。これからも、丘の上からモンマルトルを見守り続けるだろう。  (「ロートレックとモンマルトルの風車」より)]

Le Moulin Blute-Fin – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向・グリーンのアーチがムーラン・ド・ラ・ギャレットの入り口の扉です。緑に覆われて見えませんが丘の上に、1622年製作の風車(ムーラン~ブリュット・ファン[ロートレックとモンマルトルの風車]より)があります。

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