マーカーはヴァンドーム広場です。
ヴァンドーム広場(フランス語:Place Vendôme)
[ヴァンドーム広場とはパリの1区にある四角い広場で、テュイルリー宮殿の北、マドレーヌ寺院の東に位置する。ヴァンドーム広場はRue de la Paix(「平和通り」の意。高級ブランド店が並ぶことで有名)の始点でもある。ジュール・アルドゥアン=マンサールによる規則的な建築と、角のところで斜めになっているペディメントの仕切りとで、長方形のヴァンドーム広場は八角形に見える。ヴァンドーム広場はファッショナブルでデラックスなホテル群で有名である。
ヴァンドーム広場は、仮設での使用の後、1702年にルイ14世の栄光を称えるために敷設され、「征服広場」(Place des Conquêtes)から「ルイ大王広場」(Place Louis le Grand)へと名前を変えたが、この時期フランスは占領地を失いつつあった。王の騎馬像も、広場の中央に設置された。
ナポレオン1世はアウステルリッツの戦勝を祝賀して、トラヤヌス記念柱を模したコラム(円柱)を建てたが、これは現在も広場にある。コラム(円柱)には浅い浮き彫りを施したブロンズの延べ板が螺旋状に巻きつけられている。この彫刻はピエール=ノラスク・ベルジェレ(Pierre-Nolasque Bergeret)によるもので、彼のプロパガンダによればブロンズは、ヨーロッパ連合軍から奪い取った大砲を材料にしているという(133もの大砲がアウステルリッツで獲得されたというが、こういった数字は通常かなり誇張されているものである)。
ナポレオン失脚ののち、皇帝像はコラム(円柱)の上から降ろされ、そのブロンズはポン・ヌフ橋の上のアンリ4世_(フランス王)の騎馬像を作り直すために提供された。ナポレオン像はルイ・フィリップ王によって再度掲げられ、より古典的で堂々とした像がナポレオン3世によっても作り直されている。
パリ・コミューン期の1871年4月12日帝権の象徴を分解することは決議され、5月8日コラム(円柱)は倒された。再建の予定はなかったが、ブロンズの延べ板は保存された。アドルフ・ティエールがパリ・コミューンを攻撃した後、議会はナポレオン像とコラム(円柱)の再建が決定された。
ヴァンドーム広場パノラマ・wikipedia-photo
ヴァンドーム広場・wikipedia-photo
コラム(円柱)基礎の詳細・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、ヴァンドーム広場の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・ヴァンドーム広場より)]
「プラス・ヴァンドーム – Google Map 画像リンク」
カメラ南南西方向がヴァンドーム広場ナポレオン像とコラム(円柱)です。
黄昏のヴァンドーム広場