マーカーはサント・ステファノ門です。
城壁と城門(Mura e Porte)
[旧市街は防御の目的で城壁に囲まれていましたが、人口の増加に伴い街が大きくなるにつれて城壁も建て替えられ三重になりました。最も古いものは4世紀にまでさかのぼるという説もありますがはっきりとは分かっていません。材料である石膏の名をとり「セレニテの城壁」と呼ばれています。
その後11世紀に「1000年の城壁」と呼ばれる全長3.5kmの城壁が造られました。全部で17あった城門のうち四つが現存していてサン・ヴィターレ通りやカスティリオーネ通り、ピエッラ通りのそれぞれ中程にあります。
13世紀には全長7.6kmとさらに長い城壁が造られ、12の城門が設けられました。残念ながら20世紀の初めに環状道路(Viale)を建設するために城壁は取り壊されましたが、九つの城門は完全な形のまま残っています。この城壁を全て見るには時間がかかりますのでお勧めできませんが、どうしても全部見たい方は中央駅から環状道路を一周する32番か33番のバスに乗るのが便利です。 (「ボローニャの裏観光スポット:イタリア旅行のガイドブックとして …」より)]
サント・ステファノ門(Porta Santo Stefano)
[サント・ステファノ門は、ボローニャの13世紀の城壁の門の1つです。長い間「トスカーナへのゲートウェイ」と考えられていました、同名の通りの終わり、シルコンヴァラツィオーネ通り(viali di Circonvallazione)との交差点にあります。
13世紀に建てられ、次の2世紀に何度か修復されました。15世紀にさらに整備され、1512年の包囲攻撃(カンブレー同盟戦争)の際に砲弾により深刻な損傷を受け、元の塔が破壊されました。翌年、彼は再びクォーターデッキで武装しました。
1843年に、以前の建物は完全に破壊され、教皇グレゴリウス16世(在位1831年-1846年)の命により建築家フィリッポ・アントリーニ(Filippo Antolini)によって設計された2つの建物からなるグレゴリオの障壁と呼ばれる新しい記念碑的な通路が建設されました。フータ(Futa)道路の改修により、フィレンツェとの交通と貿易の多くは、サント・ステファノ門を通過し始めました。門は2本の柱と大きな鉄の門で閉じられていました(カスティリオーネ門の横にあるパルコ・デイ・ジャルディーニ・マルゲリータ(マルゲリータ公園・Parco dei Giardini Margherita)の入り口に再配置されています)。
1902年に壁が取り壊された後、サント・ステファノ門の2つの建物には、公衆浴場、交通警察本部、ボローニャ歴史芸術委員会、PSIの「ベンティーニ」セクションなど、さまざまな用途に使用され、1972年以降は自己管理の基、各種団体に使用されています。
「サント・ステファノ門のグレゴリオの障壁」・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、サント・ステファノ門の画像またはその他のファイルが含まれています。]
シルコンヴァラツィオーネ通り(viali di Circonvallazione)図
「Porta Santo Stefano – Google Map 画像リンク」
カメラ南東方向がサント・ステファノ門で左右に2つの建物からなるグレゴリオの障壁があります。
カメラ北西方向がサント・ステファノ門で左右に2つの建物からなるグレゴリオの障壁があります。
カメラ位置はマルゲリータ公園入り口門前のカメラで、カメラ南東方向がサント・ステファノ門に使用されていた柱と扉です。(Google Map)