サン・フェリーチェ門

マーカーはサン・フェリーチェ門です。

城壁と城門(Mura di Bologna
[旧市街は防御の目的で城壁に囲まれていましたが、人口の増加に伴い街が大きくなるにつれて城壁も建て替えられ三重になりました。最も古いものは4世紀にまでさかのぼるという説もありますがはっきりとは分かっていません。材料である石膏の名をとり「セレニテの城壁」と呼ばれています。
その後11世紀に「1000年の城壁」と呼ばれる全長3.5kmの城壁が造られました。全部で17あった城門のうち四つが現存していてサン・ヴィターレ通りやカスティリオーネ通り、ピエッラ通りのそれぞれ中程にあります。
13世紀には全長7.6kmとさらに長い城壁が造られ、12の城門が設けられました。残念ながら20世紀の初めに環状道路(Viale)を建設するために城壁は取り壊されましたが、九つの城門は完全な形のまま残っています。この城壁を全て見るには時間がかかりますのでお勧めできませんが、どうしても全部見たい方は中央駅から環状道路を一周する32番か33番のバスに乗るのが便利です。  (「ボローニャの裏観光スポット:イタリア旅行のガイドブックとして …」より)]

サン・フェリーチェ門(イタリア語:Porta San Felice)
[サン・フェリーチェ門は、ボローニャの13世紀の城壁の門の1つです。
ポルタサンフェリーチェは、歴史的中心部の西端にあり、エミリア街道(via Emilia)に沿って、サン・フェリーチェ通り(via San Felice)からアウレリオ・サフィ通り(via Aurelio Saffi)に名前が変わった地点、シルコンヴァッラツィオーネ通り(viali di Circonvallazione)との交差点に位置しています。13世紀にレンガで建てられ、1334年に要塞と跳ね橋が装備されました。
戦いに向かって行進する軍隊は、しばしばサン・フェリーチェ門を通過しました。実際、この門から、ギベリン(Guelfi e ghibellini)の前哨基地であるモデナに到達することができました。
シュヴァーベン皇帝フリードリヒ2世(在位:1220年 – 1250年)の息子である捕虜となったエンツォ王(Enzo di Svevia)は、サンフェリーチェ門から連れてこられ、死ぬまでエンツォ王宮に収監されていました。
1325年、ザッポリーノの戦いで優勢となったモデナ軍は、サン・フェリーチェ門に到達した後、ボローニャの人々を嘲笑する証として、井戸から桶を略奪したとされます。この物語は、盗まれた桶(La secchia rapita)として記憶されています。
1506年には修復され、1509年には橋を保護するための前部が装備されました。エミリア街道に沿って配置され、隣接する建物には、衛兵所と職務の徴収に関与する徴税人が収容されていました。1805年、ナポレオンの訪問の際に、大規模に改修されました(そのため、当時はナポレオン門と呼ばれていました)。その後、1840年に新しい修復が行われ、最後に1903年に壁から隔離されました。2007年から2009年にかけて行われた修復作業により、サン・フェリーチェ門はかつての形態を取り戻しました。

城門外側のサン・フェリーチェ門ファサード・wikipedia-photo

城門内側のサン・フェリーチェ門ファサード・wikipedia-photo

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シルコンヴァラツィオーネ通り(viali di Circonvallazione)図

Porta San Felice – Google Map 画像リンク

サン・フェリーチェ門外側のカメラです。

サン・フェリーチェ門内側のカメラです。