ボローニャのゲットー

マーカーはシナゴーグを記念した石膏板です。

ボローニャのゲットー(Ghetto di Bologna)
[ボローニャのゲットーは、教皇パウロ4世(在位:1555年 – 1559年)によって1555年7月14日に発行された『クム・ニムス・アブスルドゥム』教皇勅書回勅よって実行された、そこに住むボローニャユダヤ人コミュニティを隔離収容することを目的としたボローニャ市の都市部区域です。教皇の回勅は一般に、教皇の影響力国家領域におけるユダヤ人の存在を規制しました。ゲットーは歴史的中心部にあり、ザンボニ通り(via Zamboni)、オベルダン通り(via Oberdan)、マルサラ通り(via Marsala)で完全に囲まれています。
ゲットーとボローニャのユダヤ人の歴史
ボローニャの活気のあるユダヤ人コミュニティは、14世紀初頭には間違いなく存在していました。何よりも商業と金融に専念し、コミュニティはすぐに繁栄と人口増になり、絶大な経済力および知的基盤の確立によりコミュニティ全体で社会的有利性を確立しました。
ボローニャでのユダヤ人の存在はもともと忍容性が高く、コミュニティは最初の2世紀の歴史の中で比較的簡単に融合することができました。この証拠は、1488年にボローニャ大学でユダヤ教の歴史の学部が設立されたという事実でもあります。しかし『クム・ニムス・アブスルドゥム』の発行直後、1566年、ボローニャでさえ、ユダヤ人は「ユダヤ人の動物園」と呼ばれる明確に定義された地域に閉じ込められ、その後、教皇パウロ4世によって課せられた制限を受けました。
ゲットーは市の他の部分から完全に分離されており、アクセスは日没時に閉鎖される3つのゲートによって規制されていました。デルカロ通り(via del Carro)とザンボニ通りの交差点は、3つのうちの1つではっきりと認識できますが、他の2つは、歴史的中心部の都市の進化にほぼ完全に吸収されています。
シナゴーグは1943年の爆撃でほぼ完全に破壊され、現在、自分たちの宗教を管轄するためにゲットーのユダヤ人が率いたボローニャのシナゴーグを記念した、デル・フェルノ通り(via dell’Inferno)の16にある1つの石膏板しかありません。
ユダヤ人のコミュニティは、1593年の追放に続いて、ナポレオン時代にのみゆっくりと自分自身を再構成し、ほぼ完全に分散しました。しかし、ボローニャのユダヤ人が彼ら自身が普通のイタリア市民として認められるのを見ることによって完全に彼ら自身を解放することができるようになるには、イタリアの統一を待つ必要がありました。
歴史的中心部の不可欠な部分となっている古代ゲットーには、ボローニャのユダヤ博物館があります。
ゲットー内部のピアッツェッタマルコビアージ(Piazzetta Marco Biagi all’interno)からの2つの塔の眺め・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、ボローニャのゲットーに関する画像やその他のファイルが含まれています。]

[パウルス4世は強烈な反ユダヤ主義者であった。彼にとってユダヤ人は神から見捨てられた存在であり、キリスト者の愛を受けるに値しない民族であった。1555年には回勅『クム・ニムス・アブスルドゥム』によってローマに住むユダヤ人をゲットーに追い込んだ。ユダヤ人の生活は制限され、夜間は外出禁止になった。ゲットーの建設は以後の教皇たちにも受け継がれ、イタリアの諸都市でユダヤ人は差別を受ける事になった。  (wikipedia・教皇パウロ4世より)]

ボローニャのゲットー(M358 Ex Ghetto Ebraico . Bologna – studiomaciより)

Ghetto Ebraico – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向がデルカロ通り(via del Carro)とザンボニ通りの交差点にある、ボローニャのゲットーの入り口門の一つです。(Google Map)

カメラ南南西方向壁にシナゴーグを記念した石膏板があります。(wikimedia画像リンク)

カメラ南方向に斜塔見えます。(wikipedia-photo画像の位置です。Google Map)