ポンバル侯爵広場

マーカーはポンバル侯爵の記念碑です。

ポンバル侯爵広場
[リスボン市内の大通(Avenida da Liberdade)を北に進んでいくとポンバル侯爵の大きな記念碑が見えてきます。像の周りは大きなロータリーになっており、いくつかのバスも止まります。近くにはホテルもたくさんあり、地下鉄の駅もあるため、観光の拠点にもなります。
ポンバル像の後ろには、エドゥアルド7世公園(Parque Eduardo VII)があります。少しきつめの勾配の坂道に沿って大きな公園があり、温室などの見どころがあります。坂を登って行くのは大変ですが、上り切るとこのような美しい風景が私たちを迎えてくれます。16,56,726番のバスでもここに来ることができます。  (「ポルトガル(5) - リスボン - その他の地域 – ドイツ・マールブルク日記」より)]

ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ
[ポンバル侯爵セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ・イ・メロ(ポンバルこうしゃく – , Sebastião José de Carvalho e Melo, Marquês de Pombal, 1699年5月13日 – 1782年5月8日)は、近世ポルトガル王国の政治家。国王ジョゼ1世の全面的信任を得て長年独裁権力を振るい、啓蒙的専制を行った。
セバスティアン・デ・カルヴァーリョ・イ・メロはリスボンの小貴族マヌエル・デ・カルヴァーリョ・イ・アタイデの息子として生まれた。コインブラ大学に学び、しばらく軍に勤務した後にリスボンへ戻り、アルコス・セバスティアン伯爵の姪であるテレサ・デ・メンドーサ・イ・アルマダと結婚した。しかし、妻の実家は身分違いだと反対しており、何かと差し障りが多かったので、ポンバル近くの領地に引きこもった。1738年にロンドン駐在ポルトガル大使に任命され、1745年からはウィーン駐在ポルトガル大使に移った。ポルトガル王妃マリア・アナはオーストリアハプスブルク家の出身で、カルバーリョに何かと目をかけ、彼の最初の妻が亡くなると、オーストリア元帥ダウン伯爵の娘と結婚させた。しかし、国王ジョアン5世は彼を嫌い、1749年にウィーンから召喚した。翌1750年、ジョアン5世が死去すると、新王ジョゼ1世はカルヴァーリョを好み、王太后の了解を得て外務大臣に任命した。やがて王はカルヴァーリョを全面的に信頼するようになり、国政を委ねていった。
1770年、ジョゼ1世は宰相カルヴァーリョをポンバル侯爵に叙した。ポンバル侯爵は1777年ジョゼ1世が死去するまで独裁権力を行使した。だが、マリア1世(在位:1777年 – 1816年)はポンバルを好まず、彼が大貴族に加えた残忍な弾圧を忘れていなかった。ポンバルは宰相職を解任され、女王から20マイル以内に近付くなという勅令まで出された。ポンバルは田舎の荘園に引きこもり、そこにフランス式庭園をもつ豪華なヴィラを建てている。ただ女王が彼の荘園の近くまで来た時は勅令に従い、しばらく自分の地所から立ち去らなければならなかった。1782年、ポンバル侯爵はこの荘園で平和に死去した。今日、リスボン中心部の最も重要な地下鉄駅はポンバル侯爵にちなんで命名されており、その広場には侯爵の銅像がそびえている。  (wikipedia・ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョより)]

[リスボンは、1755年リスボン大地震で約6万人の死亡者を出した(地震の被害者総計は約9万人から10万人といわれる)。市内は津波と火災により多くの家屋も損傷し、リスボン市のみならずポルトガルの国内経済にも影響を与える甚大な被害を受けた。市内はのちにポンバル侯爵の設計で再建された計画都市となった。  (wikipedia・リスボンより)]

Estátua do Marquês de Pombal – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向がポンバル侯爵の記念碑です。

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