(モンタルチーノ)

モンタルチーノは、イタリアトスカーナ州シエナ県にある人口 5,631 人の基礎自治体コムーネ)です。ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ(Brunello di Montalcino)とロッソ・ディ・モンタルチーノ(Rosso di Montalcino) の産地として知られています。モンテ・アミアータ(Monte Amiata)の北西部、ヴァル・ドルチャ(オルチャ渓谷)の端、グロッセート県との行政境界に位置しています。
モンタルチーノが位置する丘は、おそらくはエトルリア時代には人々が定住していた。史料で初めてこの町が現れるのは814年のことである。この文書からは、9世紀にこの地に教会があり、付近のサンタンティモ修道院 (Abbey of Sant’Antimo) の修道僧たちと関連があったことが示唆されている。街の人口は10世紀半ば、付近のロゼッレ (Rusellae) の街(現在はグロッセートの分離集落)から逃れてきた人々が移り住んだことによって急増した。
中世にこの町は皮革生産で知られており、高級な革から靴やその他の革製品を製造していた。時代が流れるにつれ、モンタルチーノを含めた高台の町々は経済的に衰退していく。トスカーナの多くの街がそうであるように、モンタルチーノは長い平和の時代を経験し、ささやかな繁栄を謳歌した。しかしながら、こうした繁栄はしばしば動乱によって中断した。中世後期、ローマフランスとを結ぶ古い街道「ヴィア・フランチジェナ」 (Via Francigena) 沿いのこの街は、かなりの重要性を持った独立したコムーネであった。しかし、やがてより大きく野心的なシエーナ共和国の支配下に組み込まれていく。
1260年のモンタペルティの戦い (Battle of Montaperti) 以後、モンタルチーノはシエーナの衛星都市となったが、シエーナが巻き込まれたさまざまな抗争(とくに15~16世紀にはシエーナとフィレンツェの抗争)の巻き添えを受けることとなった。また、北部・中部イタリアの都市と同様、教皇派と皇帝派の争いにも巻き込まれた。
1555年、シエーナ共和国はメディチ家フィレンツェ共和国によって征服される。モンタルチーノでは4年間にわたって強い抵抗が行われるが、最終的にはフィレンツェの膝下に屈した。その後、トスカーナ大公国が1861年にイタリア王国に編入されるまで、この町はフィレンツェの支配下に置かれた。
モンタルチーノでは、著名なワイン「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」の生産によって経済は成長している。このワインは、コムーネで栽培されるsangiovese grosso種のブドウから生産される。ワイン生産者の数は1960年代には11であったが、今日では200以上に増加しており、年間33万ケースの「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」が出荷されている。「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」は、保証つき統制原産地呼称(DOCG)の指定を受けた最初のワインであった。  (wikipedia・モンタルチーノより)

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    モンタルチーノ旧市街の鳥瞰カメラです。
    [カメラ初期設定方向中央にサンアントニオ・アバーテ教会、その左上鐘楼がある建物がモンタルチーノ大聖堂、右のバラ窓がある建物がサンタゴスティーノ教会(市民教区博物館)、カメラを右方向に振るとモンタルチーノ要塞が見えます。]

    モンタルチーノ要塞前停留所モンタルチーノ要塞サンタゴスティーノ教会(市民教区博物館)サンアントニオ・アバーテ教会ポポロ広場(デイ プリオーリ宮・ラ ロッジア)モンタルチーノ大聖堂マドンナ・デル・ソッコルソ教会モンタルチーノ(終点・始発)停留所ブレッリ門(Porta Burelli)