レオン市庁舎

マーカーはレオン市庁舎です。

レオン
[レオンは紀元前1世紀、ローマ軍団第6軍団ウィクトリクスによって建設された。68年、第7軍団ゲミナが恒久的な軍事キャンプを創設し、これが市の原型となった。レオンという都市の名前は、かつてのラテン語の名前Legio VII Geminaに由来する。ローマ軍団は、ローマ皇帝ガルバ(在位は68年 – 69年)によりイベリア人から補充され、彼らは市の場所を、アストゥリアスカンタブリアの山岳民族から領土を守るための要地とした。そして域内の、特にラス・メドゥラスで採掘される金の輸送を取り締まっていた。タキトスは旧第7軍団クラウディアと区別して軍団をガルビアナ(Galbiana)と呼んだが、この名称は裏付けられるどの碑文からも確認されていない。ゲミナの名称があったことはわかっている。ゲルマン人軍団の一つを指揮したウェスパシアヌス(在位:69年 – 79年)によって合併されたため、第1軍団ゲルマニカになったとはありえない。軍団の正式名は、第7軍団ゲミナ・フェリクスであった。パンノニアで任務に就いた後、内戦時にヒスパニア・タラコネンシスでウェスパシアヌスによって駐留させられた。元々この地域にいた軍団3つのうちの2つ、第6軍団ウィクトリクスと第10軍団ゲミナの場所を提供されたが、この2つはゲルマニアへ退却していった。
後の皇帝たちの支配下でこの定期的なレオンの冬期宿舎は、プトレマイオスの旅行日記や幾つかの碑文から我々は知ることができる。しかし、多くの碑文からは、強力な分遣隊は州の主要都市タラコ(Tarraco、現在のタラゴナ)にいたことが証明されている。
レオン王国
ローマ以後のレオンは、レオン王国の歴史が占める。アストゥリアス地方にあったローマ軍団の基地は、重要な都市に成長し、586年まで西ゴート族の攻撃に抵抗し続けた。586年、ついに西ゴート王リウヴィギルド(Liuvigild)に征服されたのである。レオンは、西ゴート王国が要塞の維持を許した数少ない都市の一つだった。イスラム勢力(ウマイヤ朝・661年 – 750年)との抗争時代、ローマ人が山岳民族の侵入から平野を守るために建設した要塞は、スペイン独立の最後の避難所として、山地を覆った進化した地位になった。
846年間近には、モサラベの集団が市に再び植民しようとしたが、イスラム勢力(後ウマイヤ朝・756年 – 1031年)の攻撃で主導権が妨げられた。856年、キリスト教徒のアストゥリアスオルドーニョ1世(在位:850年 – 866年)の再植民の試みがなされ成功した。オルドニョ2世(ガリシア王・在位:910年 – 924年)、レオン王・在位:914年 – 924年)はレオンをレオン王国の首都とし(914年)、イベリア半島のキリスト教徒都市で最重要の地となった。
987年頃イスラムの将軍による略奪に遭い、市はレオン王アルフォンソ5世(在位・999年 – 1028年)によって再建され、彼は市場の機能を含む経済活動を取り締まる1017年法令を出した。レオンはサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の拠点の一つであった。貿易商人と職人のための郊外が13世紀以降ふくらみ、自治対政府の影響を受け始めた。中世初期、家畜の飼育が市繁栄の時代を築いた。
16世紀、経済と民主主義の衰退が固定され、その状態は19世紀まで続いた。1936年7月、スペイン内戦時、レオンは共和主義者に対する闘争(フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍の拠点)に参加した。  (wikipedia・レオン_(スペイン)より)]

Ayuntamiento de León – Consistorio de San Marcelo – Google Map 画像リンク」「Plaza De San Marcelo – Google Map 画像リンク

カメラ位置はサン・マルセロ広場で、カメラ西南西方向がレオン市庁舎です。

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