レコンキスタ

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    レコンキスタ(国土回復運動)
    [レコンキスタ(スペイン語:Reconquista)は、718年から1492年までに行われた、キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称である。ウマイヤ朝(661年 – 750年)による西ゴート王国の征服とそれに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落によるナスル朝滅亡で終わる。
    6世紀初頭、フランク王国(481年 – 987年)との戦いに敗れ、国家の重心をイベリア半島へ移した西ゴート王国は、約1世紀をかけて半島全土を支配下におさめた。589年にキリスト教アリウス派からカトリックに改宗していた西ゴートは、イベリアのカトリック化を推進した。
    一方、661年に建国されたイスラーム国家のウマイヤ朝は、積極的な拡張政策によって急速に勢力を拡大していた。8世紀初頭までに北アフリカの西端まで版図を広げていたウマイヤ朝は、710年、ジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に上陸した。この時は一部の都市を襲撃しただけだったが、西ゴート側の抵抗が弱いのを知り、本格的な遠征軍を組織しはじめた。
    翌711年、ターリク・イブン・ズィヤード率いる遠征軍がジブラルタル海峡を越えた。同年7月19日、ターリクはグアダレーテの戦い(Battle of Guadalete)で西ゴート軍に壊滅的打撃を与え、国王のロデリックを戦死させた。王が死んだ西ゴートには後継者がおらず、その混乱に乗じてウマイヤ朝は支配領域を拡大していった。710年代の終わりまでに、ムスリム勢力はイベリア半島を北上し、カンタブリア山脈以北およびピレネー山脈以北までキリスト教勢力を追い詰めていった。この頃、イベリア半島南部はイスラムのアル・アンダルス(ヴァンダル人の地の意、アンダルシアの語源)と名前を変えた。
    718年、西ゴート王国の貴族を称するペラーヨが、アストゥリアス地方でキリスト教徒を率いて蜂起し、アストゥリアス王国(718年 – 925年)を建国した。多くの史家はレコンキスタの開始をこの年に設定している。722年(あるいは718年、724年とも)、ペラーヨはコパドンガの戦いに勝利し、イスラム勢力に対するキリスト教国家として初めての勝利を手にした。これは実際には小規模な戦いに過ぎなかったが、イベリア半島のキリスト教徒にとっては象徴的な初勝利であった。以降、アストゥリアスはレコンキスタの拠点となった。同じ頃、カンタブリアでも豪族のペドロ公がイスラム勢力を排除していた。両国は連携し、ペドロ公の息子のアルフォンソ1世は、ペラーヨの娘と結婚した。間もなく両国は統合され、地盤を得たアストゥリアス王国は、徐々に南方への反攻を開始した。

    レコンキスタに重要な役割を担うカスティーリャ=レオン王国の変遷

    サンチョ3世(在位:1157年 – 1158年)時代。赤がナバーラ王国で、カスティーリャはその最も西の逆T字形の部分

    イサベル1世(在位:1474年 – 1504年)がカスティーリャ王に即位した1474年におけるイベリア半島の勢力地図

    イスラーム勢力の後退(914年–1492年) イスラーム勢力はイベリア半島の南に押しやられていき、1492年にはすべての領土を失った

    レコンキスタ年表
    ●415年 – (西ゴート王国)建国(首都-南フランス・トロサ(現トゥールーズ)。
    ●507年 – (西ゴート王国)フランク王国とブイエの戦い(Battle of Vouillé)に敗北、王も戦死。イスパニアのみの統治に。
    ●549年 – (西ゴート王国)メリダに遷都。
    ●554年 – (西ゴート王国)東ローマ帝国(395年 – 1453年)の攻撃に遭いイスパニア南部を喪失。
    ●560年 – (西ゴート王国)トレドに遷都。
    ●585年 – (西ゴート王国)現ガリシアにあったスエボス(スエビ)王国併合。
    ●589年 – (西ゴート王国)カトリックを公認。王自身も改宗。
    ●621年 – (西ゴート王国)イベリア半島統一。
    ●711年 – (西ゴート王国・ウマイヤ朝) ウマイヤ朝がイベリア半島に上陸、グアダレテの戦いに勝利し、西ゴート国王ロデリックは敗死、王国滅亡。
    ●714年 – (ウマイヤ朝)イベリア半島ほぼ全域を支配下に(総督政庁 – セビリアその後コルドバ)。
    ●718年 – (アストゥリアス王国)西ゴート王国貴族ペラーヨ、イベリア半島北西部にまで逃れ、在地のアストゥリアス人勢力と結んで建国(首都カンガス・デ・オニス)。
    ●722年 – (アストゥリアス王国)コパドンガの戦いで、アストゥリアスを奪回し、カンガス・デ・オニスにキリスト教徒の拠点を確保した(最初のレコンキスタ)。
    ●8世紀末 – (アストゥリアス王国)アルフォンソ2世(791年-842年)は西ゴート王国の後継を自負し、オビエドに遷都。
    ●750年 – (ウマイヤ朝)ホラーサーン地方で勃発したアッバース革命により750年に滅亡し、アッバース朝(750年 – 1258年)が興る。
    ●756年 – (後ウマイヤ朝)ウマイヤ朝の第10代カリフ・ヒシャーム(在位:724年 – 743年)の孫アブド・アッラフマーン1世(在位:756年 – 788年)はイベリア半島へ逃れて建国(首都コルドバ)。
    ●778年 – (後ウマイヤ朝)パンプローナを攻略。
    ●805年 – アスナール・ガリンド1世(Aznar I Galindez)がハカを中心にアラゴン伯領を建国。
    ●824年 – (ナバラ王国)バスク人の首領イニゴ・アリスタ(Íñigo_Arista_of_Pamplona)がパンプローナで王として選ばれフランク王国に対する反乱(ロンスヴォー峠の戦い(824)・Battle of Roncevaux Pass (824))を率いたことによる。
    ●905年 – ナバラ王国サンチョ・ガルセス1世(在位:905年 – 925年)がナバラ王国とアラゴン伯領を統合。
    ●914年 – (レオン王国)アストゥリアス王国がレオンに遷都し、レオン王国が成立。
    ●932年 – (レオン王国)レオン王国の東部地域をイスラム軍の最前線としての軍事力強化を目的として、カスティーリャ伯領として統合。
    ●939年 – シマンカスの戦い(Battle of Simancas)でキリスト教国連合軍が後ウマイヤ軍を破る。
    ●961年 – (レオン王国・カスティーリャ王国)カスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレス(カスティーリャ伯:923年 – 970年)は、レオン王国内での地位を強め、伯領に対する王国の支配力を排斥し事実上独立。
    ●1008年 – (後ウマイヤ朝)コルドバでクーデターが発生。ヒシャーム2世(在位:976年 – 1009年。1010年 – 1013年)が廃され、後ウマイヤ朝は内乱に突入。
    ●1029年 – (カスティーリャ王国・ナバラ王国)カスティーリャ伯ガルシア・サンチェス(García Sánchez of Castile)が暗殺されると、その妹を妃としていたナバーラ王サンチョ3世(在位:1004年 – 1035年)が伯領を継承し、ナバーラ王国に併合。
    ●1031年 – (後ウマイヤ朝)最後のカリフ、ヒシャーム3世(在位:1027年 – 1031年)の廃位、追放が大臣たちによる「評議会」によって決定されて滅亡。(タイファ諸国の乱立)。
    ●1035年 – (ナバラ王国)サンチョ3世の死後、ナバラ王国、カスティーリャ王国、アラゴン王国に分割。
    ●1037年 – (カスティーリャ=レオン王国)カスティーリャを相続したサンチョ3世の次男フェルナンド1世(在位:1037年 – 1065年)はカスティーリャ王を称し、レオン王ベルムート3世(1017年 – 1037年)を倒してレオン王位をも獲得する。
    ●1065年 – (カスティーリャ=レオン王国)フェルナンド1世(在位:1037年 – 1065年)の死後分割相続し、カスティーリャ王となった長男サンチョ2世(在位:1065年 – 1072年)は再統合すべく行動を起こす。レコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族エル・シッドもサンチョ2世の下で活躍する。
    ●1072年 – (カスティーリャ=レオン王国)カスティーリャ王サンチョ2世は再統合達成直前に暗殺された。亡命していたサンチョ2世の弟・レオン王アルフォンソ6世(レオン王・在位:1065年 – 1109年、カスティーリャ王・在位:1072年 – 1109年)が復位し、カスティーリャ・レオン連合王国を再統合。アルフォンソ6世が王位を継ぐと、エル・シッドはカスティーリャから追放されてしまった。
    ●1076年 – (アラゴン王国・ナバラ王国)ナバラ王サンチョ・ガルセス4世(Sancho IV of Navarre・在位:1054年–1076年)の暗殺。アラゴン王サンチョ・ラミレス(在位:1063年 – 1094年)がナバーラ王国を継承。
    ●1085年 – (カスティーリャ=レオン王国)イスラム国(タイファ諸国の一つ、トレド王国)のトレドを攻略。
    ●1086年 – (タイファ諸国)アフリカのムラービト朝(1040年 – 1147年)に援助を求め、ムラービト朝はそれに応えてに兵をイベリア半島へ上陸、サラカの戦いでカスティーリャ王国を破る。
    ●1091年 – (タイファ諸国)ムラービト朝がタイファ諸国の併合を開始。1110年までに南部イベリアを統一。
    ●1094年 – (タイファ諸国)エル・シッドがバレンシアをイスラム教徒から奪回する。バレンシア平定後、シッドは幽閉されていた妻子を呼び寄せた。その後5年間の統治を経て亡くなっている。その後バレンシアはムラービト朝に奪回された。
    ●1118年 – (アラゴン王国)アルフォンソ1世(在位:1104年 – 1134年)がサラゴサを攻略。
    ●1137年 – (アラゴン王国)カタルーニャ君主国・アラゴン連合王国が成立。
    ●1139年 – (カスティーリャ=レオン王国)オーリッケの戦いでポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスがムラービト朝を破る。ポルトガル王国の独立を宣言し、アフォンソ1世(在位:1139年 – 1185年)を称する(1143年、レオン王国が承認)。
    ●1147年 – (ムワッヒド朝)ムラービト朝に代わりムワッヒド朝(1130年 – 1269年)がイベリア半島南部を統治する。
    ●1157年 – (カスティーリャ=レオン王国)ムワヒッド軍との戦いでアルフォンソ7世(在位:1126年 – 1157年)が戦死すると、王国は再度分割相続され、サンチョ3世のカスティーリャ王国とフェルナンド2世(在位:1157年 – 1188年)のレオン王国とに分かれた。
    ●1198年 – ローマ教皇インノケンティウス3世(在位:1198年 – 1216年)がキリスト教諸国に交戦停止と対イスラーム統一戦線を呼びかける。
    ●1212年 – ラス・ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教国連合軍がムワッヒド朝軍を破る。この戦いによって、ムワッヒド朝はイベリア半島での支配力を失い、イスラム勢力圏は再び小国乱立状態となり、その多くはタイファ同士の主導権争いで敗れたり、勢いづいたキリスト教諸国の餌食になり、滅びた。
    ●1224年 – (ムワッヒド朝)ユースフ2世ムスタンスィル(1214年 – 1224年)が亡くなり、ムワッヒド朝は内乱に突入。
    ●1230年 – (アラゴン王国・レオン王国)レオン王国がバダホス、メリダを攻略、ポルトガル王国はエルヴァスを攻略し、アラゴン王国とポルトガル王国はバレアレス諸島を攻撃(1235年までに制圧)。
    ●1230年 – (カスティーリャ王国・レオン王国)レオン王アルフォンソ9世(在位:1188年 – 1230年)が亡くなり、カスティーリャ王フェルナンド3世(カスティーリャ王・在位:1217年 – 1252年、レオン王・在位:1230年 – 1252年)がレオンを継承、両国を統合。
    ●1235年 – (ナスル朝)グラナダを攻略(1238年に遷都)。
    ●1236年 – (カスティーリャ王国)コルドバを攻略。
    ●1238年 – (アラゴン王国)バレンシアを制圧。
    ●1248年 – (カスティーリャ王国)セビーリャを占領。
    ●1251年 – ムスリム勢力がナスル朝(グラナダ王国)のみに。
    ●1258年 – (マリーン朝)モロッコに存在していたイスラーム国家マリーン朝・アブー・ユースフ・ヤアクーブ即位
    ●1260年 – (カスティーリャ王国)モロッコのサレでマリーン朝に対する反乱が起きると、アルフォンソ10世(在位:1252年 – 1284年)は艦隊を派遣して反乱を助けた。カスティーリャ軍はサレを略奪するが、ムワッヒド朝の残党の包囲を受けて退却し、モロッコにアフリカ進出の拠点を築くことはできなかった。
    ●1264年 – (マリーン朝)ナスル朝の要請に応じて、イベリア半島各地で蜂起したイスラーム教徒を支援するために1,000の騎兵を派遣した。
    ●1269年 – (マリーン朝)マラケシュ占領。ムワッヒド朝が滅亡。
    ●1275年 – (マリーン朝)イベリア半島へ侵攻を開始。ナスル朝から貸与されたタリファアルヘシラスジブラルタルを拠点とした。
    ●1275年 – (マリーン朝)9月にマリーン朝とナスル朝の連合軍はエシハでカスティーリャ軍に勝利を収め、翌1276年初頭に撤退する。
    ●1282年 – (マリーン朝・カスティーリャ王国)カスティーリャで王子サンチョ(後のサンチョ4世・在位:1282年 – 1295年)がアルフォンソ10世に反乱を起こした際にアルフォンソ10世はマリーン朝に援軍を要請し、ユースフ・ヤアクーブはアルフォンソ10世と共闘してサンチョを攻撃した。サンチョはこれを撃破して父をセビリャに幽閉した。そして1284年に父が死去し、名実共に国王となった。
    ●1286年 – (マリーン朝・カスティーリャ王国)マリーン朝とカスティーリャ王国の間に和平が成立。
    ●1333年 – (マリーン朝)アブー・アルハサン・アリーはイベリア半島へ再侵攻、アルヘシラスを占領する。
    ●1340年 – (マリーン朝)キリスト教国の艦隊を破ったアブー・アルハサン・アリーはイベリア半島に上陸し。しかし、10月30日にサラードの戦い(Battle of Río Salado)でマリーン朝はキリスト教国の連合軍に決定的な敗北を喫する。以後マリーン朝はイベリア半島の城砦に守備隊を置いてナスル朝を支援したが、遠征事業を行うことは無くなった。
    ●1350年 – (カスティーリャ王国)ペドロ1世(在位:1350年 – 1366年、1367年 – 1369年)がカスティーリャ王に即位、第一次カスティーリャ継承戦争の勃発。
    ●1369年 – (カスティーリャ王国)エンリケ2世(在位:1369年 – 1379年)がペドロ1世を排除してカスティーリャ王に即位、トラスタマラ朝に王統が交代。
    ●1469年 – (アラゴン王国・カスティーリャ王国)アラゴン王子フェルナンド(のちのアラゴン王フェルナンド2世、カスティーリャ王フェルナンド5世)、カスティーリャ王女イサベル(のちのイサベル1世)と結婚。
    ●1474年 – (カスティーリャ王国)イサベル1世(在位:1474年 – 1504年)がカスティーリャ女王に即位。
    ●1479年 – (アラゴン王国・カスティーリャ王国)フェルナンド2世(在位:1479年 – 1516年)がアラゴン王に即位、スペイン王国が誕生。
    ●1482年 – (スペイン王国・ナスル朝)スペイン王国、対グラナダ戦争(Guerra de. Granada)を開始する。
    ●1492年 – (スペイン王国・ナスル朝)グラナダ陥落しナスル朝滅亡。レコンキスタの終結。
    ●1512年 – (ナバラ王国)アラゴン王フェルナンド2世がナバラ王国に侵攻して併合し、ナバラ王国はカスティーリャ王国の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残され、公式には1833年までスペイン王国に併合されなかった。  (wikipedia・レコンキスタその他より)]

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