ヴェネツィア・ゲットー

    上地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。

    ヴェネツィア・ゲットー
    [ヴェネツィア共和国は10世紀頃から通商の拠点となり、第4回十字軍コンスタンチノープルを攻略した13世紀以降には地中海において覇権を握った国である。
    通商の拠点であるヴェネツィアには、神聖ローマ帝国(ドイツ)のユダヤ人が徐々に移り住むようになった。彼らはヴェネツィア船が東方から運んできた品を買い取り、中西欧に仲介していた。
    13世紀にヴェネツィア政府は、ユダヤ人に対してヴェネツィア潟の島の一つスピナルンガ島(Spinalunga、後にユダヤ人居住区を意味するジュデッカ島という名になった)に住む事を強制した。本土(ヴェネツィア共和国の大陸の領土)のメストレに住む事を強制した時期もある。更にユダヤ人に黄色いバッジと帽子を被る事を義務付けたりもしている。
    しかしヴェネツィアのユダヤ人は栄えた。彼らはユダヤ人特別税を払う事でヴェネツィアの財政に大きく貢献している。
    1516年にヴェネツィア本島の西北部カナレッジオ地区(Cannaregio)の新鋳造所跡にユダヤ人居住区が建設され、ヴェネツィアのユダヤ人はここに移住を強制された。鋳造所はヴェネツィア語で「Getto」といい、これがユダヤ人居住区を意味する「ゲットー(Ghetto)」の単語の語源になったといわれている。現在このゲットーは「新ゲットー」(Ghetto Nuovo)と呼ばれる地域になっている。新ゲットーは四方運河に囲まれており、高い塀がめぐらされ、外向きの窓はすべて煉瓦でふさがれていた。設立当初の新ゲットーの人口は700人ほどとみられる。
    1538年には隣接する旧鋳造所跡にもユダヤ人の居住が認められ、1541年にはここがゲットー化した。これが現在「古ゲットー」(Ghetto Vecchio)と呼ばれている地域である(新旧はゲットーが建設される前の鋳造所についてのことであり、ゲットーとしての成立は新ゲットーの方が古ゲットーより古い事に注意)。
    新ゲットーが創設された当初は住民の大多数が神聖ローマ帝国(ドイツ)ユダヤ人で、土着のヴェネツィア(イタリア)ユダヤ人はわずかであったという。しかしこの後、イスラム圏ユダヤ人(レバンティニ。東方ユダヤ人・東地中海ユダヤ人)とスペインポルトガル系(ポネンティニ)ユダヤ人も増えた。
    イスラム圏ユダヤ人はヴェネツィア共和国にとって東方貿易における経済的ライバルであったので、初めヴェネツィア共和国はイスラム圏ユダヤ人の商品の運搬を自国船に禁止していた。しかし後にこれが解禁され、更にローマ教皇が宿敵のイスラム教徒との交易を禁止するようになるとヴェネツィア共和国にとってイスラム圏ユダヤ人との交易が重要なものになった。そのため、やがて彼らのヴェネツィア共和国居住も認められるようになったのであった。
    最盛期にはゲットーの人口は5,000人に達したという。ゲットー住民たちは、主に神聖ローマ帝国系、イスラム圏系、スペイン・ポルトガル系でグループを形成し、それぞれ別個のシナゴーグスコラ(教学館)を持ち、別々の風習・言語があった。住民の職業は商業、金融、医師、船員、外交関係、通訳などが多かった。
    ゲットー住民は日中だけは地の利の悪い所で商売を行う事を許されたが、夜は事実上ゲットーに閉じ込められた。重いユダヤ人特別税も課せられた。
    しかしそれでもユダヤ人はヴェネツィアで栄えた。ヴェネツィアの東方貿易の主役はユダヤ人だった。ユダヤ人が乗っていないヴェネツィア船はほとんど見当たらないほどだった。
    ゲットーは言うまでもなくユダヤ人隔離を目的として作られた差別的立法の産物である。しかしながら、同時期の中欧のゲットーとは異なり、ヴェネツィア・ゲットーに対してヴェネツィア人が略奪や虐殺などを行うようなことはなかった。
    1797年にヴェネツィア共和国はナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍によって滅ぼされた。
    これによりユダヤ人はもはやゲットーに居住することを強制されなくなった。ヴェネツィアはこの後フランス帝国オーストリア帝国の領土を経て、イタリア統一国家イタリア王国の領土となった。だが、ヴェネツィアのユダヤ人がゲットー居住を再び強制されることは無かった。
    だが解放された後もゲットーに留まったユダヤ人は多かった。ゲットーのユダヤ人のうち裕福な者はゲットー外へ移住することもできたが、貧しい者は移住の金が無いため、そのままゲットーで暮らすしかなかったためである。
    イタリア王国では1922年にローマ進軍によってベニート・ムッソリーニファシスト党政権が誕生したが、ムッソリーニは人種差別政策は掲げなかったので、はじめユダヤ人が迫害されることはなかった。しかし1930年代末になるとナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの圧力に屈して徐々にユダヤ人を社会から排除する立法を開始した。
    1943年にドイツ軍がイタリアに侵攻すると、イタリアでもナチスによるユダヤ人狩りが行われるようになった。イタリア全土で約9,000人のユダヤ人がナチスの犠牲になったと見られている。ヴェネツィアのゲットーで暮らしていたユダヤ人は五分の一がナチスの強制収容所へと移送されている。
    現在、新ゲットーにはナチス占領期のイタリア・ユダヤ人の殉難の碑が残されている。


    ヴェネツィア・ゲットーの地図。「Ghetto Nuovo」(運河で囲われている範囲)と書かれているのが「新ゲットー」、「Ghetto Vecchio」(運河で囲われている範囲の下)と書かれているのが「古ゲットー」。
      (wikipedia・ヴェネツィア・ゲットーより)]

    [新ゲットーは、周囲を囲む建物の外側の窓は全て煉瓦で塞ぎ、棟間も高い塀で塞がれ、東西ベルリンの境界線のようであった。設立当初の新ゲットーの人口は、イタリア系ユダヤ人とアシュケナジムで 700 人ほどとされる。当時若干の店子が存在していたが、ユダヤ人の入居のために退去を余儀なくされた。
     ここは鋳造所跡というだけではなく、刑務所と処刑された犯罪人の埋葬を担っていたサン・ジローラモの僧院の近くでもあり、今日でいう都市の迷惑施設ということになる。
    隔離といっても完全隔離ではなく、夜間の出入りを禁じられていた。出入り口は2つの門に限られ、一つは旧ゲットーとの間の「ゲットー運河」の橋の上、もう一つはその反対側の「サン・ジローラモ運河」の橋の上に設けられた。朝はサン・マルコ広場のマランゴーナの鐘で開門し、夜半には 4 人のキリスト教徒によって閉じられ、周囲の運河にはキリスト教徒の警護の船が出て監視していた。この経費も当局の定める基準によってユダヤ人によって購われていた。
     新ゲットーが手狭になったこともあり、1538 年には隣接する旧鋳造所跡にもユダヤ人の居住が認められ、1541年にはレヴァンティニのための居住地として指定され、「旧ゲットー」(Ghetto Vecchio)と呼ばれるようになる。
    旧ゲットーはアシュケナジムが多い新ゲットーと異なり、庭園や居住空間を含むように拡張され、ユダヤ人としての規制も新ゲットーのそれと異なっていた。衣服に識別票をつける必要こそあったが、職業は金融と中古取引に限定されなかった。  (「欧州都市のユダヤ人街に関する研究ノート(1) ―ヴェネツィア(イタリア)」より)]

    カメラ北北東方向が「古ゲットー」の出入口です。

    カメラ東方向にヴェネツィア・ゲットーのインフォメーションがあります。

    カメラ位置は「ゲットー運河」の橋上で、ここに新ゲットーの出入口があった。カメラ初期設定方向が新ゲットーで、反対側が古ゲットーになります。

    カメラ位置は「新ゲットー広場」で、カメラの設定方向が実際と合っていませんが、このカメラの北北東方向・樹木の向こうがユダヤ博物館、カメラ南南西方向・レンガ壁にはユダヤ人収容所へ向かうナチスの移送列車が描かれている「ホロコースト記念碑」が、カメラ南東方向壁面に複数のプレートと壁頂上に有刺鉄線がはられた「ユダヤ人迫害に関するモニュメント」が設置されています。

    カメラ南南方向が「サン・ジローラモ運河」の橋で、この場所に「新ゲットー」の出入口門がありました。

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

    *