アダム・スミスの像

マーカーはアダム・スミスの像です。

アダム・スミスの像
[アダム・スミスは税関吏を父としてスコットランドの海沿いの町カコーディーに生まれたが、父は生まれる半年前に死亡した。生年月日は不詳であるが、1723年6月5日に洗礼を受けたことは明らかになっている。未亡人となった母は、亡夫と同じアダムという名前を一人息子につけ、生涯愛情を注いだ。スミスは4歳の時にスリに仕立て上げることを目的とした誘拐に遭うものの、誘拐犯からスリには向かないという烙印を押され、解放されてしまうほど内向的性格を持ち、吃りがあった。
グラスゴー大学で哲学者フランシス・ハチソンの下で道徳哲学を学び、1740年にオックスフォード大学に入学するが、1746年に退学。1748年からエディンバラで修辞学や純文学を教え始め、1750年頃、後に友人となる哲学者デイヴィッド・ヒュームと出会う。その後、1751年にグラスゴー大学で論理学教授、翌1752年に同大学の道徳哲学教授に就任する。1757年、エンジニアのジェームズ・ワットが同大学構内で実験器具製造・修理店を開業することを手助けした。1759年にはグラスゴー大学での講義録『道徳情操論』(または『道徳感情論』The Theory of Moral Sentiments)を発表し、名声を確立。同書の理論は我々には道徳を感じる感覚(Moral Sence)があるというモラル・センス学派に含まれる。
1763年には教授職を辞し、第3代バクルー公爵ヘンリー・スコットグランドツアーに家庭教師として同行しフランスに渡る。その頃パリのイギリス大使館秘書を務めていたヒュームの紹介でジャック・テュルゴージャン・ル・ロン・ダランベールフランソワ・ケネーをはじめとするフランス知識人と親交を結んだ。しかし、バクルーの弟がパリで病没したことをきっかけにイギリスに戻った。スミスは1766年にスコットランドに戻り、1776年3月9日に出版されることになる『国富論』の執筆にとりかかる。
アメリカ独立、テュルゴー失脚の年に発表された『国富論』はアダム・スミスに絶大な名誉をもたらし、イギリス政府はスミスの名誉職就任を打診したが、スミスは父と同じ税関吏の職を望み、1778年にエディンバラの関税委員に任命された。著書は前記の2冊のみで、死ぬまでその改定増補に集中した。1782年の母の死後は奇行が目立ち、税関職員の制服に身を包み、街を徘徊するようになる。1787年にはグラスゴー大学名誉学長に就任し、1790年にエディンバラで67歳で死亡した。収入の相当部分を慈善事業に捧げ、死の直前、草稿類をすべて焼却させたといわれる。
「アダム・スミス肖像画・wikipedia-photo  (wikipedia・アダム・スミスより)]

カメラ西北西方向がアダム・スミスの像です。

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