マーカーはサラリア門跡です。
サラリア門跡
[サラリア門(ラテン語: Porta Salaria)は、イタリアの首都ローマの古代ローマ時代のアウレリアヌス城壁(271年 – 275年建設)に設けられた城門である。1921年に取り壊され現存していない。
サラリア門は、紀元3世紀にローマ帝国第44代皇帝アウレリアヌス(在位270年 – 275年)により、都市ローマを取り囲むアウレリアヌス城壁と同時に造られる。ローマとカストゥルム・トゥルエンティウムを結ぶサラリア街道を通過させるために造られた門である。門の形式はアーチ型の通路が中央に1つと、両側に2本の円形の塔を持つものであった。サラリア門のすぐ内側にはサッルスティウス庭園(Gardens of Sallust)があり、5世紀にはホノリウス帝(在位:395年 – 423年)によりアーチ門がオプス・ミクストゥム方式のローマン・コンクリートで補強され、アーチ開口の上には3つの窓が新たに造作された。
410年のローマ略奪で、西ゴート族の軍勢はこの門を通って市内に雪崩れ込んだ。また、ゴート戦争における537年から538年のローマ包囲戦(Siege of Rome)で、東ローマ帝国の将軍ベリサリウスと東ゴート王国の王ウィティギスによる攻防は、サラリア門とカストロ・プレトリオ(Castro Pretorio)がその舞台の一つであった。
中世、他の多くの門と同じくサラリア門に新たな(カトリック風の)名前は付けられず、この門の名称は引き続き使われつづけた。1870年9月20日、サラリア門とピア門の間でイタリア軍と教皇軍の間の戦闘が行われた(ローマ占領)。この時、イタリア軍の砲撃により門はダメージを受けたため、翌年取り壊され、1873年に再建されたが、道路の拡張のため1921年に撤去された。現在はフィウメ広場(Piazza Fiume)となっている。
18世紀のサラリア門を描いた絵画・wikipedia-photo、1871年の破壊される前のサラリア門・wikipedia-photo (wikipedia・サラリア門より)]
アウレリアヌス城壁図(拡大図・地図右上「灰色十字格子」の左上がノメンターナ門で、その左上がサラリア門です。)
カメラ位置はサラリア門跡で、カメラ北方向がサラリア街道になります。また東、西方向にはアウレリアヌス城壁が現存しています。