サンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会(骸骨寺)

マーカーはサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会(骸骨寺)です。

サンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会(骸骨寺)
[16世紀はヨーロッパに宗教改革の嵐が吹き荒れた世紀であったが、カトリック教会の教会刷新運動もさかんに行われた(対抗宗教改革)。フランシスコ会に属したイタリア人司祭のマテオ・ダ・バッシ(Matteo Bassi)(マテオ・バスキ)が、1525年、イタリアのサン・ポーロ・デンツに所在するモンテファルコーネ修道院において、アッシジの聖フランチェスコを範とし、原点に立ち戻った厳格な清貧主義の徹底を主張し、フランシスコ会(「オブセルヴァンティス小さき兄弟会」)から分派した。これが、カプチン・フランシスコ修道会である。カプチン会は、1528年、ローマ教皇教皇クレメンス7世の認可を受け、正式に成立した。1538年には南イタリアのナポリでクララ会から分派した女子カプチン会も創設され、その動きはフランススペインなどへ広がった。
「カプチン会」の名は修道服の頭巾(カプッチョ, イタリア語: cappuccio)に由来する。その印象的な頭巾から人々が呼んだものが正式な名称となった。なお、この「カプチン」は 「オマキザル属」(英語: capuchin)や「カプチーノ」(イタリア語: cappuccino)、和名「僧帽筋」などの語源ともなっている。
1536年、教皇パウルス3世はカプチン会の活動をイタリア国内に限定したが、1574年、教皇グレゴリウス13世はパウルス3世の禁止令を解除し、活動は世界各地に拡大した。当初は「コンベンツァル小さき兄弟会」の庇護下にあったが、1619年に独立の修道会として認可された。日本では1947年に宣教を開始した。
なお、カプチン会特有の遺体埋葬方法としてミイラ保存がある。
「ローマのサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会の納骨堂を飾る4,000人のカプチン会修道士の遺体」・wikipedia-photo

  (wikipedia・カプチン・フランシスコ修道会より)]

骨で装飾された部屋も!見どころたくさん骸骨寺 [ローマ] All About」、「4千人分の骨がアートに!ローマの「骸骨寺」で見たもの – 世界新聞

骸骨寺 – Google Map 画像リンク」「Convento dei Frati Cappuccini – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向がサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会(骸骨寺)です。

サンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会(骸骨寺)身廊のカメラです。

祭壇前のカメラです。

右側第1礼拝堂のカメラで、正面祭壇画はグイド・レーニ作「大天使ミカエル」です。