マーカーはドムス・アウレア(黄金宮殿)入口です。
ドムス・アウレア(黄金宮殿)(英語:Domus Aurea、イタリア語:Domus Aurea)
[ドムス・アウレア(黄金宮殿)はローマ帝国第5代皇帝ネロ(在位:54年 – 68年)が建設した大宮殿。黄金宮を意味する。64年に起こったローマ大火の後にローマ市中心部に建設された広大な宮殿で、このためネロは市民の大顰蹙を買うことになった。 16世紀には地下の洞窟「グロッタ(グロテスク)」として知られており、その室内装飾はルネサンス美術にも大きな影響を与えた。
ドムス・アウレアは、64年のローマ大火後にネロが建設した宮殿である。その広大な敷地は50haとも150haとも言われる。伝統を保持していたローマ市において、ローマン・コンクリートの造形を追求した革新的な建築物であったと評価できるが、69年にこの宮殿に住んだウィテリウス(在位:69年1月2日 – 12月20日)は、優雅でないと酷評している。
宮殿の設計は建築家セウェルスと、機械装置を考案したケレルによって行われた。庭園を中心に多くの建築物が複合した宮殿で、その入り口には大列柱廊と37mの高さのネロのブロンズ像(コロッスス)を構え、天井から花弁と香水が降り注ぐ食堂、天空の如く回転するドームなどがあり、壁や床はモザイクで覆われていた。さらに、ギリシアなどからもたらされた美術品が無数に置かれていた。しかし、ネロの死後、104年に宮殿は火災に遭い、その敷地は次々と公共建築用地に転用され、急速に消滅した。このため、宮殿は文献からその姿を想像することしかできず、全容についてはよく分からない。宮殿の跡に建設されたものとしては、庭園にあった池の跡にウェスパシアヌスが建設したアンフィテアトルム・フラウィウム(コロッセオ)や、その北側に造営されたティトゥス浴場とトラヤヌス浴場などがある。
1480年代、あるいは1493年からオッピウス丘陵よりトンネルを掘って内部に侵入する試みが始まり、1490年代には、画家たちが地下歩廊から各部屋の装飾を見学するようになった。宮殿跡には、ここを訪れた多くの画家たちのサインが残っている。この宮殿跡は17世紀まで、一般にティトゥス浴場と考えられていたが、ラファエロ・サンティなど、一部の芸術家は、これがネロの宮殿であることを知っていた。
この建物の真に革新的な部分は、ローマン・コンクリートによって構築されたヴォールト天井とドームが架けられた八角型の部屋である。八角堂の形式は他にみられないが、ドムス・アウレアではじめて採用されたとは考えにくいので、直接の原型があると考えられる。ドーム頂部からだけでなく、これに付随する部屋への採光を確保できるような造形は、オクタウィアヌス(在位:紀元前27年 – 紀元14年)の時代から培われたローマン・コンクリートがあってはじめて成り立つもので、皇帝自らの邸宅に革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となった。
ドムス・アウレアの一部で、現在まで比較的まとまった状態で残っているのは、トラヤヌス浴場を建設する際に埋められた、東西220m、南北70m程度の部分だけである。
ドムス・アウレアは第二次世界大戦後の長期間をかけた修復工事のあと、1999年から一般に公開されるようになったが、大雨による被害があり2005年12月に再び閉鎖された。2010年03月に、地下遺構の天井部分が約60平方メートルにわたって崩落した。今回崩れた箇所は、2005年の大雨の被害により修復・補強工事のため閉鎖されていた。2019年5月、修復作業中に「秘密の部屋」と思しき小さな部屋が発見された。考古学チームは「秘密の部屋につながる穴を偶然発見した」と述べており、部屋はケンタウロスやパンなどのギリシャ神話に関する絵で彩られていたと語っている。同チームは「この発見は『紀元60年代のローマの雰囲気』を垣間見ることを可能とするものとしており、部屋はとても華やかで、保存状態も非常に良好だ」としている。
同チームは新たに発見されたこの部屋を「サーラ・デッラ・スフィンジェ(Sala della Sfinge、スフィンクスの間)」と命名した。
「ドムス・アウレアは今日もなおトライアヌス浴場の遺跡およびその周辺の公園の下に埋もれている。」・wikipedia-photo、「近年再公開されたドムス・アウレアにあるミューズ像」・wikipedia-photo、「ドムス・アウレアの壁画の様式はラファエルによるバチカン宮殿の「スタンツェ」や、18世紀の新古典主義に影響を与えた。」・wikipedia-photo、「藻による損傷の痕跡。2007年2月。」・wikipedia-photo (wikipedia・ドムス・アウレアより)]
[安全確保の為の工事と、フレスコ画などの修復保全作業は現在でも行われています。下のマップは先月9月(※2014年)の工事の進展状況です。紫色の部屋の部分は作業が完了しました。黄色の部分は現在進行中のお部屋です。
ネロ帝の黄金宮殿の東側部分は、104年頃にトラヤヌス帝がトラヤヌス帝の浴場を造った際に、宮殿の基礎部分を使い回して建てた為、今日まで残ることとなりました。綺麗に土をかぶせて埋め立てていたお部屋部分からはフレスコ画やスタッコ(装飾漆喰)などの壁面装飾がごっそり出てきました。
現在の問題点は、黄金宮殿の真上にある市民公園(オッピオ公園)です。公園に植えられている樹木の根っこがしばしば地下に埋もれている宮殿の天井部分を突き抜け、亀裂の入った壁から雨水を透水させています。水浸しになる為、宮殿内の湿度は90%あります。排水用の穴を多数掘って何とか切り抜けています。遺跡内のフレスコ画が耐えることのできる湿度は最大で75%です。
また、これらの樹木と土の重みは、耐久性がなくなった古代の建造物を簡単に潰してしまう危険性があります。将来的には現在の70%の重みを取り除かないと、構造的にドムス・アウレアの天井部分は耐えられない計算です。現在、公園の土の厚さは3メートルあります。土は雨水を含むと非常に重くなります。最終的には、土の厚さは1メートルにしないといけません。 (「ネロ帝の黄金宮殿 “ドムス・アウレア”。約10年ぶり、いよいよ開き …」より)]
ドムス・アウレア(黄金宮殿)平面図―2(「ローマ ドムス・アウレア3 八角形の広間まで」より)
「『ドムス・アウレア (ローマ)/初めてのドイツ13回目のイタリア【4日目 …」「ドムス・アウレア(ネロ帝の黄金宮殿跡)見学レポート : ローマより …」
「黄金宮殿 – Google Map 画像リンク」、「Domus Aurea Entrance – Ingresso – Google Map 画像リンク」
カメラ東方向がコッレ・オッピオ公園の門です。
カメラ北北西方向金網フェンスがドムス・アウレアの入り口です。
カメラ北西方向に進みます。
平面図 ⅩⅧ 赤矢印-ドムス・アウレア(黄金宮殿)へのエントランス通路(トラヤヌスの壁(Murature di Traiano)部分。「先月9月(※2014年)の工事の進展状況」図の左側円弧の中央・紫のルートがエントランス通路になります。
平面図 88 –
平面図 92 -大廊下
[こちらの天井の穴をご覧ください。
何だと思いますか?
そうです。
ルネッサンス期に、多くの芸術家たちが、地上からこの穴を通って地下に眠る洞窟のような黄金宮殿の中に降りて来ていたのです。
もちろん絵を見るためです。
かなり危険なことだったようですが、別の部屋には、ピントゥリッキオが降りてきた際のサイン(刻みつけたもの)も残っていました。 (「ドムス・アウレア(ネロ帝の黄金宮殿跡)見学レポート : ローマ …」より)]
平面図 119 -スキロスのアキレスの間の天井フレスコ画
[この部屋は、「スキューロス島のアキレウスの間」と呼ばれます。天井にギリシャ神話の英雄アキレウスにまつわる物語が描かれているからです。 (「ドムス・アウレア(ネロ帝の黄金宮殿跡)見学レポート : ローマ …」より)]
平面図 128 -ドムス・アウレア「八角形の間」のカメラです。(Google Map)
[こちらが、ドムス・アウレア(黄金宮殿)で最も有名な「八角形の間」です。この部屋は、形として実に美しいのです。この完璧さ、この美しさは、写真ではどうしても伝えることができませんね。パンテオンのように天井の真ん中に丸い穴が開いています(現在は地下にあるので空は見えませんが、明かり取りだったそうです)。 (「ドムス・アウレア(ネロ帝の黄金宮殿跡)見学レポート : ローマ …」より)]
平面図 124 -カメラ南方向が「八角形の間」です。
天井のグロテスク文様