ピンチョの丘

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    ピンチョの丘
    [ピンチョの丘(イタリア語: Pincio、ラテン語: Mons Pincius)は、ローマの歴史的中心地の北東に位置する丘。クイリナーレの北に位置し、カンプス・マルティウスを眺望できる。古代のローマの市域の外にあり、ローマの七丘にも含まれないが、ローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス(在位270年 – 275年)が270年から273年にかけて建設したアウレリアヌス城壁の内側である。
    古代ローマの有力な氏族は、特に共和政ローマ後期にこの丘の南斜面にヴィッラ庭園 (horti) を建てており、例えばルクッルス庭園、サッルスティウス庭園などがあった。ピンチョの丘は古代ローマ時代には Collis Hortulorum(庭園の丘)と呼ばれていた。現在の名称は紀元4世紀にこの丘を所有することになった一族 Pincii に由来する。
    ピンチョの丘の景色が現在のようになったのは、1809年から1814年にジュゼッペ・ヴァラディエが造園した結果である。在ローマ・フランス・アカデミーは1802年にヴィラ・メディチに移転した。ピンチョの丘では果樹林の中に幅の広い並木道 (viali) が通っていて、深い茂みを通って既存の建築物などを結んでいる。ヴィラ・メディチからオベリスクハドリアヌス帝(在位:117年 – 138年)時代のオベリスク。1822年復元・wikipedia-photo)までを結ぶ並木道もある。このオベリスクはピンチョの丘に目玉となる景色を提供すべく1822年9月に建てられた。これはエジプトのオベリスクではなくローマのオベリスクで、紀元2世紀初めにハドリアヌス帝が自身の愛したアンティノウスの記念碑としてもともとはマッジォーレ門の外に建てたものである。ポポロ広場を見下ろす位置にある「ナポレオン広場」もヴァラディエが作ったもので(ナポレオン自身はローマを訪れたことはない)、そこから西にローマの中心部が見渡せるようになっている。ヴァラディエはポポロ広場とナポレオン広場を途中に大きな踊り場を挟んだゆったりした階段でつなぎ(ポポロ広場から東に向かいピンチョの丘へと伸びている階段・wikipedia-photo)、他にもスイッチバック式の馬車用の道を作った。またピンチョの丘の並木道にはジュゼッペ・マッツィーニの希望で著名なイタリア人の胸像が並べられている。
    ボルゲーゼ公園はピンチョの丘と歩道橋でつながっており、その下の谷間をムーロ・トルト通りが走っている。ムーロ・トルト通りはアウレリアヌス城壁に沿って走る道で、ピンチアーナ門に続いている。  (wikipedia・ピンチョの丘より)]

    [ボルゲーゼ公園内の水時計・wikipedia-photo  (wikipedia・ボルゲーゼ公園より)]

    ピンチョの丘 – Google Map 画像リンク」「ピンチョの展望テラス – Google Map 画像リンク」「Fountain of Moses – Google Map 画像リンク

    カメラ東方向・ポポロ広場から東に向かいピンチョの丘へと伸びている階段を進むとピンチョの丘で、カメラ西方向がポポロ広場になります。

    ピンチョの丘からのポポロ広場。

    ピンチョの丘からの黄昏のポポロ広場。

    カメラ南西方向がハドリアヌス帝時代のオベリスクです。