マーカーはストロッツィ宮です。
ストロッツィ宮
[ストロッツィ広場、通りの名前の由来となったPalazzo Strozzi(ストロッツィ宮)は10世紀にすでに存在していたと言われるストロッツィ一族出身の Filippo Strozzi(フィリッポ・ストロッツィ;1426-1491)の依頼によって1489年に建設が始められたもので、イタリアのルネサンスの中でもっとも美しいといわれる建物の1つです。フィレンツェでもっとも大きいこの館は、ストロッツィ広場とストロッツィ通り、トルナブオーニ通りに面する3面は同一の入り口、壁面、窓など持つのが特徴で、この3面はほかの建物に接しておらず全景を見る事ができます。反メディチ勢力だったストロッツィ一族は1434年にメディチ家によって追放されたのですが、ナポリの銀行家として成功したフィリッポ・ストロッツィは1466年にフィレンツェに戻る事に成功、ライバルたちを脅かす存在になりました。自分の屋敷の周りの土地を次々と買い上げたのち、1489-1490年にGiuliano da Sangallo(ジュリアーノ・ダ・サンガッロ;1445-1516)が木造のストロッツィ宮を設計したと言われています。しかし、Giorgio Vasari (ジョルジョ・ヴァザーリ;1511-1574)は、この館の原型はメディチ家にひいきされていたBenedetto da Maiano(ベネデット・ダ・マイアーノ;1442-1497)が起工したと記しており、真実は定かではありません。フィリッポは莫大なお金を準備し、すべてがスムーズに進むようセッティングしていました。最初の石を積む日を決めるのでさえ、多くの天文学者を呼んだといわれています。しかし、着工して2年後の1491年に亡くなり、夢にまで見た豪邸の完成を見る事はありませんでした。彼の2人の息子は引き続き建設を進めましたが、父の夢をかなえるには多額の費用が必要で困難な状態に陥ります。南側のファザードとコーニスの半分は完成するに至りませんでした。その息子の1人、フィリッポ2世はメディチ家のトスカーナ大公コジモ1世(在位:1537年 – 1574年)によって1538年に投獄され、獄中で自殺しています。 (「ストロッツィ通り、ストロッツィ広場、アンセルミ通り」より)]
[ファサード・wikipedia-photo、広場・wikipedia-photo]
「ストロッツィ宮 – Google Map 画像リンク」、「ストロッツィ広場 – Google Map 画像リンク」
カメラ南西方向がストロッツィ宮で、宮殿前がストロッツィ広場です。
ストロッツィ宮中庭のカメラです。