マーカーはピッティ広場です。
ピッティ広場
[広場が誕生したのは1440年、銀行家ルカ・ピッティが一族の豊かさを示すため壮大な宮殿(ピッティ宮殿)を築くことを決めた時である。その財力を強調するため、野心溢れるプロジェクトには宮殿の前に広場を造ることが想定されていた。ルカ・ピッティはボルゴ・ディ・ピアッツァ(現在広場の前を通るグイッチャルディーニ通り)の一角の建物を全て買い取って取り壊した。広げられた一角はパラージョ・デイ・ピッティ(パラージョ:パラッツォ、宮殿、館という意)と呼ばれたが、この大宮殿の建設、また広場の造営も膨大なコストに阻まれて中断される。ピッティ家にとってもそれは支出不可能な金額となっていた。
1549年、エレオノーラ・トレド(1519年 – 1562年)が宮殿を買い取り、中断していた工事を再開しただけでなく更に拡張した。18世紀、広場の両側にそれぞれロンドと呼ばれる柱廊のついた建物が増築される。デザインしたのは、ジュゼッペ・ルッジェーリとパスクアーレ・ポッチャンティであった。更に古くから広場に隣接していたグイッチャルディーニ館Palazzo Guicciardiniの一部が、広場の形を均等にするため取り壊された。
広場の反対側には15世紀の取り壊しを逃れた注目すべき建物がいくつかある。その一つがピッティ宮殿の別館で一族の紋章がかかげられており、また1397年から1482年までは天文学者で数学者のパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリが住んだ。彼の描いた地図を用いて、クリストファー・コロンブス(1451年頃 – 1506年)が“インド”への航海の準備をしたのである。もう一つの建物はロシアの作家ドフトエフスキー(1821年 – 1881年)が1868年から1869年にかけて小説“白痴”を書き上げた所でもある。
膨大な数の観光客が訪れる広場は1993年まで観光バスや車の駐車場として使用されていたが、鋪装されてからは鎖がつけられ車両侵入禁止となった。 (「Firenze-Oltrarno.net: ピッティ広場」より)]
カメラ位置はピッティ広場で、カメラ南方向がピッティ宮殿です。