ゴッホ美術館

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[Google アートプロジェクト] – 「ゴッホ美術館

ゴッホ美術館-フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧

ゴッホ美術館(英語:Van Gogh Museum、オランダ語:Van Gogh Museum)
[ゴッホ美術館は、オランダアムステルダムにある、フィンセント・ファン・ゴッホの作品を中心とした美術館である。
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年3月30日-1890年7月29日)の作品を中心とした国立美術館。
ゴッホ作品のほか、同時代のポール・ゴーギャンアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックらの作品、ゴッホが傾倒していた日本の浮世絵、盛んに模写をしたジャン=フランソワ・ミレーなども展示されている。ゴッホとは直接関係のない特別展も積極的に開催している。
ゴッホ作品の真贋を鑑定するなど、ゴッホに関する世界的権威である。日本にある作品では、損保ジャパン東郷青児美術館(現SOMPO美術館)所蔵の「ひまわり」やウッドワン美術館の「農婦」について真作である旨の鑑定をしている。ただし、ゴッホの個人美術館にとどまらず、19世紀を中心とした近代美術の展示・研究機関となっている。
ゴッホは、後の時代に盛んに研究や新たなる創作の源となっている。そのため、ゴッホに関する書籍が多く出版発表されており、それらの書籍を2万4000冊以上有する図書室が美術館に併設されており、来館者も閲覧をすることができる。
沿革
ファン・ゴッホ美術館は1973年、ゴッホ財団およびアムステルダム市の協力を得て、国立美術館として開館した。
美術館の基となったコレクションは、ファン・ゴッホの弟であり、経済的・精神的な後援者であったテオことテオドルス・ファン・ゴッホ(1857-1891)と妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(1862-1925)の所有だったものである。内訳は、ゴッホの油絵約200点、素描約500点、書簡約700点、それにファン・ゴッホとテオが収集した浮世絵約500点などである。
テオ夫妻の没後、コレクションは彼らの子のフィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(1890-1978)に相続された。フィンセント(甥)は、伯父の作品をまとまった形で保存したいと希望した。そこで、オランダ政府、アムステルダム市などが資金を出し、1962年にファン・ゴッホ財団を設立した上、財団が作品を購入または寄付を受けた。現在の美術館は、財団がそのコレクションを国立の美術館に永久寄託する形で運営がなされている。
国立美術館と称されるが、「国立美術館自立法」に基づき国が出資した財団法人 (independent foundation) により運営されている。
建築
本館 – 常設展が行われている。ヘリット・リートフェルトの設計。直線を基本とした、前衛的な建築である。別館、近接するアムステルダム国立美術館と対照的な印象を与える。
別館 (The Exhibition Wing) – 特別展示、浮世絵の展示などが行われている。黒川紀章が設計し、1999年6月にオープンした。曲線が多用されており非対称の美を表している。この別館の建設資金として、日本の損保ジャパン国際交流基金を通じて寄付をしている。
本館・wikipedia-photo、ゴッホ美術館本館と別館・wikipedia-photo、ゴッホ美術館 (2018)・wikipedia-photo
主な収蔵作品(ゴッホ)
●畑で仕事をする農夫(1883年)(commons.wikimedia)
●フェルトの帽子をかぶった自画像(1887年)(commons.wikimedia)
●日本趣味(広重江戸百景』より)(1887年)(commons.wikimediacommons.wikimedia)
●キャンヴァスの前の自画像(1888年)(commons.wikimedia)
●種まく人(1888年)(commons.wikimedia)
●野菜畑(1888年)(commons.wikimedia)
黄色い家(1888年)
ファンゴッホの寝室(1888年)
●荒れ模様の空と畑(1890年)(wikipedia-photo)
カラスのいる麦畑(1890年)
『パイプをくわえた自画像』 (1886年)・wikipedia-photo、『ジャガイモを食べる人々』(1885)・wikipedia-photo・wikipedia-photo、『黄色い家』 (1888年)・wikipedia-photo、『自画像』 (1888年)・wikipedia-photo、『ひまわり』 (1889年)・wikipedia-photo、『花咲くアーモンドの木の枝』 (1890年)・wikipedia-photo、『ひまわりを描くファン・ゴッホ』 (1888年) ポール・ゴーギャン作・wikipedia-photo  (wikipedia・ゴッホ美術館より]

ゴッホ美術館ホームページ」 – 「ゴッホ美術館の館内マップ

ゴッホ美術館 チケット予約・見どころ作品 徹底解説【アムステルダム】

ゴッホ美術館 – Google Map 画像リンク

カメラ南方向がゴッホ美術館本館です。この入り口は団体専用です。

カメラ北北東方向がゴッホ美術館本館で、右が別館です。

ゴッホ美術館エントランスホールのストリートビューです。

※2011年画像ですので「ゴッホ美術館の館内マップ」に置き換えていますが、展示位置は変更されていると思います。
1 – 1ルーム – 『グレーのフェルト帽子の自画像(Self-portrait with grey felt hat)』(1887年9月-1887年10月)(wikipedia-photo)

1 – 2ルーム – 『ジャガイモを食べる人々』(1885)
[1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『ジャガイモを食べる人々』を完成させた。自らが着想した独自の画風を具体化した作品。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ニューネン(1883年末-1885年)より)]

1 – 4ルーム – 『Garden with Courting Couples: Square Saint-Pierre』(1887年)の左が『1887年夏自画像』、右が『麦わら帽子を被った自画像、1887年夏』です。

1 – 6ルーム – 初期画面中央『ひまわり』 (1889年)[ファン・ゴッホが病院から「黄色い家」に戻って、東京作品を模写したものと考えられている。振動や気温・湿度の変化による損傷を避けるため、館外への貸し出しは禁ずる措置がとられている。  (wikipedia・ひまわり_(絵画)より)]、右『ゴーギャンの肘掛け椅子』(1888年)、左『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』(1888-1889年)

1 – 8ルーム – 初期設定方向中央『花咲くアーモンドの木の枝』 (1890年)、右『Undergrowth』(1889年)、左『アイリス(Irises)』(1890年)

2 – 6ルーム – 『ファンゴッホの寝室(第1バージョン』(1888年)
[フランスアルルでゴッホが暮らした家の2階の部屋を描いたもの。家は現存しないが、ゴッホの作品に黄色い家として残されている。絵の左側の扉はゴーギャンの部屋につながっていたとされる。第1バージョンはゴーギャンがアルルに来る直前の1888年10月に描かれたもの。  (wikipedia・ファンゴッホの寝室より)]

3 – 3ルーム – ケース内はポール・ゴーギャン作『ひまわりを描くファン・ゴッホ』 (1888年) 、その左二つ目が『黄色い家』 (1888年)です。中央はエミール・ベルナール 作『ポール・ゴーギャンの肖像を背景とした自画像』(1888年)
[ポン=タヴァンにいるゴーギャンから、ファン・ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた。ファン・ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にゴッホの弟テオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に『夜のカフェテラス』を描き上げた。9月下旬、『黄色い家』を描いた。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(『ファンゴッホの寝室』)。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ゴーギャン到着までより)]

ヴァン・ゴッホ作『荒れ模様の空の麦畑』(1890年7月)

ヴァン・ゴッホ作『カラスのいる麦畑』(1890)

[1890年5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。
ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めには、さらに『オーヴェルの教会』を描いた。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになる。
この頃、パリの弟テオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている。7月6日、ファン・ゴッホはパリを訪れた。ヨーによれば、アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、アルマン・ギヨマンも来るはずだったが、ファン・ゴッホは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない。ファン・ゴッホは、7月10日頃、オーヴェルからテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』)を描き上げたことを伝えている。また、ファン・ゴッホはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(手紙は残っていない)、7月22日、テオは兄に、(共同自営問題に関し)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送り、これに対しファン・ゴッホは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いている。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)より)]
  
木の根と幹』、1890年7月、(本作をファン・ゴッホの絶筆とする説がある。)
ゴッホ最後の作品《木の根と幹》が描かれた場所を特定。「非常に信憑性高い」

(拡大画像へリンク)

カメラ北西方向がゴッホ最後の作品《木の根と幹》が描かれた特定地になります。(Google Map)

[1890年7月27日の日曜日の夕方、オーヴェル=シュル=オワーズラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たポール・ガシェ医師は、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。
テオは8月1日、パリに戻ってから妻ヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。……兄と最期に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いている。
テオは、同年(1890年)8月、兄の回顧展を実現しようと画商ポール・デュラン=リュエルに協力を求めたが、断られたため画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった一方、9月12日頃、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された。なお、ファン・ゴッホの当初の墓地(正確な位置は現在は不明)は15年契約であったため、1905年6月13日、ヨー、ガシェらによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された。1914年4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、兄弟の墓石が並ぶことになった。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#死(1890年7月)より)]
オーヴェルにあるファン・ゴッホ(左)とテオの墓(wikipedia-photo)