ウィロー・ティルーム

マーカーはウィロー・ティルームです。

ウィロー・ティルーム
[ウィロー・ティールームズ(英語: Willow Tearooms)は、スコットランドグラスゴー、ソーキーホール通り119-1211にあるティールームである。国際的に有名な建築家、チャールズ・レニー・マッキントッシュによってデザインされ、1903年10月にオープンした。ウィロー・ティールームズは、瞬く間に多大な人気を得た。19世紀末と20世紀初めにオープンした多くのグラスゴーのティールームの中で最も有名である。
グラスゴーに住む茶の商人の娘で、禁酒運動の根強い信奉者であった、キャサリン・クランストンは、1903年に新しいソーキーホール通りのティールームの全てのデザインをマッキントッシュに依頼しました。マッキントッシュは初めてインテリアデザインと家具だけでなく、内部の間取りと外部の建築方法の全詳細についての責任を委ねられ、結果として建物はウィロー・ティールームとして知られるようになり、さらにマッキントッシュがミス・クランストンのために引き受けた一番有名で重要な仕事になりました。
ミス・クランストンが選んだ新しいティールームは、ソーキーホール通りの南側の都市敷地内の狭い隙間に位置し、かつては倉庫であった4階建ての建物であった。「ソーキーホール」という名前は、「ヤナギ(saugh)」と「草地(haugh)」から由来しており、これらの言葉はスコットランドの方言である。これは、マッキントッシュとマクドナルドのデザインテーマについてのアイディアの原点となっている。
現存する建物の中でマッキントッシュはグラスゴーの客を楽しませるため、様々な機能や装飾を幅広いタイプの場所に施した。1階の前方には女性のための部屋、後方には一般的なランチルーム、そして上のほうにはティー・ギャラリーがある。2階にはソーキーホール通りを見渡せる高級な女性の部屋である「豪奢の間」がある。3階は男性のために木造壁板のビリヤードルームと喫煙室になっていた。デザインのコンセプトは女性が友人と会うことと男性の仕事休憩に使われることで、それを見越して都市の中心部のオアシスとしての場所が作られた。
様々な部屋の装飾には「女性のために明るく、男性のために暗く」というテーマがある。前方の女性のティールームは白、シルバー、それからバラ色になっていた。後方の一般的なランチルームは、オークの木と灰色のカンバス、それから上から光が入る設計のティー・ギャラリーの天井はピンク、白、灰色であった。内部構造の変更と新しい外側のファサードをデザインすることに加え、妻マーガレットとの共同制作でマッキントッシュはティールームのあらゆる側面をデザインした。インテリアデザイン、家具、ナイフ・スプーン類、メニュー、それからウェイトレスの制服もデザインした。柳はティールームの名前の基盤であっただけでなく、インテリアデザインに用いられた装飾のモチーフの必要不可欠な部分と、建築の構造と家具に使用された材木の多くを構成した。
1917年の夫の死後にミス・クランストンは自分の店を売ってしまった。ウィロー・ティールームは、1928年にデーリー・デパートと合併するまで新しい名前を用いて存続していた。1938年までほかの会社はクランストン・ティールーム会社の手中になっていった。1954年にこの会社が潰れた時にティールームは売却され、その後も数年以上様々な利用がなされた。デーリー側はウィロー・ティールームズの建物をデパートの一部として使えるようにしたが、ガラスのショーウィンドーと看板で覆った1階より上の見た目は変わっていなかった。成型石膏フリーズは従前通り1階の店舗装飾より上に見ることができた。そして「豪奢の間」は1980年代初期あたりに閉店するまでデパートのティールームとして利用され続けた。
広範囲にわたる修復作業はおよそ1世紀前にハニーマン、ケピー・アンド・マッキントッシュ会社の後継者であるケピー・ヘンダーソンの建築家ジェフリー・ウィンペニーの下で実行された。ウィロー・ティールームズは1983年に再びオープンした。その際には1階と再建されたギャラリーを占めるヘンダーソン宝石店の店先をなす1階のファサードが修復された。
同じ時に「豪奢の間」は元々の配色を再現して一新し、背もたれの高い椅子を再現して備え付けた。当初は中心の正式なテーブルのところには8つの椅子しかなく、さらに周囲の椅子は背もたれが低かったのにも関わらずである。「豪奢の間」はグラスゴーの女性経営者のアン・モルハーンによって1983年に再オープンされた。そして、1996年には彼女は建物の後部にあるティーギャラリーを賃貸した。今日では、来客者はマッキントッシュが計画した通りウィロー・ティールームズをもう一度訪れることができる。1997年に「ウィロー」はブキャナン通りの新ティールームに発展した。そのティールームは隣が元々クランストン・ティールームである。これらはオリジナルデザインの再形成を特色にした。そのオリジナルデザインはマッキントッシュが近くにあったイングラム通りのミス・クランストンのティールームのために「ホワイト・ダイニングルーム」と「チャイニーズ・ルーム」として創造したデザインである。
ウィロー・ティールームズは現在閉まっており、2018年の100周年記念前に広範囲の修復を行う。
ウィロー・ティールームズファサード・wikipedia-photo、ブキャナン通りのティールームにあるマッキントッシュがデザインしたフリーズ・wikipedia-photo、1903年辺りのソーキーホール通りのウィロー・ティルームズの正面・wikipedia-photo、ブキャナン通りの看板・wikipedia-photo、修復後の「豪奢の間」・wikipedia-photo、修復後のティー・ギャラリー・wikipedia-photo、ティー・ギャラリーへの修復後手すりのある1階と壁の石膏でできたフリーズ・wikipedia-photo  (ウィロー・ティルームより)]

Mackintosh at the Willow – Google Map 画像リンク

カメラ南方向樹木向うの建物がウィロー・ティルームです。

チャールズ・レニー・マッキントッシュ
[チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh, 1868年6月7日 – 1928年12月10日)は、スコットランドの建築家、デザイナー、画家。アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者であり、スコットランドにおけるアール・ヌーヴォーの提唱者の一人でもある。
チャールズ・レニー・マキントッシュは1868年6月7日、警察官の父ウィリアム・マッキントッシュと母マーガレット・レニーの四男としてスコットランド、グラスゴーに生まれた。幼少の頃より足と目に障害を持っていたが、スコットランドの風土に触れる機会には恵まれ、多くのスケッチを描いた。
16歳の時(1889年)に、グラスゴーの建築家ジョン・ハッチソンの下に弟子入りし、同時にグラスゴー美術学校の夜間部にデザインとアートの勉強をのため入学。在学中には多くの学校賞を受賞。後の妻となるマーガレット・マクドナルド、その妹であるフランセス・マクドナルド、そしてハニーマン&ケッピー事務所での同僚でもあるハーバート・マックニーと出会っている。チャールズを含むこの4人は、ザ・フォー(The Four)と呼ばれ、グラスゴー、ロンドンウィーンの各地で展覧会を開き、その評判はマッキントッシュの名声を確立させるに至った。いわゆる、「グラスゴー・スタイル」と呼ばれるこの展覧会は、ヨーロッパ各地でその後も開かれ、ウィーン分離派に影響を与えたと言われる。
1889年、ジョン・ハッチソンの事務所から、ハニーマン&ケッピー設計事務所(1901年以後は、マッキントッシュのパートナーとなる。)に移り、製図係として働く。1890年、アレクサンダー・トムスン旅行奨学金に応募しこれを獲得。翌1891年イタリア旅行に出かける。
27歳の若さで、母校でもあるグラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペに優勝。グラスゴーのティー・ルーム(Willow Tea Room)のインテリアデザイン、ヒル・ハウスの設計などをした。
当時、建築家としての名声が得られなかったマッキントッシュは、建築の仕事がなくなってしまい、後年南フランスに移り水彩画家に転向した。
1928年、喉の癌のためにロンドンで死去。クライズデール銀行が発行する100ポンド紙幣に肖像が使用されている。
作品・建築
ライトハウス(1893年)
グラスゴー芸術学校(1899年)
クイーンズ・クロス・チャーチ(1897年)
デイリー・レコード・ビルディング(1900年)
ハウス・フォー・アート・ラバー(1900年、実現せず、1996年建設)
●ウィロー・ティルーム(1903年)
●ヒルハウス(1904年)
マッキントッシュ・ハウス(フロレタイン・テラス)[1906年、現・ハンタリアン・アート・ギャラリー]
●グラスゴー美術学校 図書館(1909年)  (wikipedia・チャールズ・レニー・マッキントッシュより)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

*