マーカーはグラスゴー大聖堂です。
グラスゴー大聖堂
[グラスゴー大聖堂(英語: Glasgow Cathedral)、またはグラスゴー高教会(英: High Kirk of Glasgow)、聖ケンティガーン大聖堂(英: St Kentigern’s Cathedral)、聖ムンゴ大聖堂(英: St Mungo’s Cathedral)はグラスゴーにあるスコットランド国教会の聖堂。
スコットランド宗教改革以前に建てられ、ローマ・カトリック教会のグラスゴー司教、大司教、続いてスコットランド国教会のグラスゴー大主教の所在地であり、現代ではスコットランド国教会のグラスゴー長老会(Presbytery of Glasgow)の所在地になっている。ハイ・ストリートの北、カテドラル・ストリートの東で、グラスゴー王立診療所(Glasgow Royal Infirmary)の隣にある。
歴史
グラスゴー大聖堂はスコットランド宗教改革以前の12世紀末に建てられ、歴代のグラスゴー司教、大司教、大主教の所在地になっている。スコットランド式ゴシック建築の一例であり、スコットランド宗教改革を生き延びた数少ない中世スコットランド聖堂の1つである(スコットランド本土では唯一)。
1502年12月10日、スコットランド王ジェームズ4世(在位:1488年 – 1513年)は大聖堂の祭壇で永遠平和条約(Treaty of Perpetual Peace)を批准した。また1544年(Battle of Glasgow (1544))と1560年(Battle of Glasgow (1560))におこったグラスゴーの戦いにも影響している。宗教改革から20年後の1581年4月22日、ジェームズ6世(後のイングランド王ジェームズ1世、スコットランド王・在位:1567年 – 1625年、イングランド王・アイルランド王・在位:1603年7月25日 – 1625年)は土地の一部からの収入を聖堂の維持費としてグラスゴー市に支払った。ジェームズ6世はこれらの土地の所有権をグラスゴー大司教ギャヴィン・ダンバー(Gavin Dunbar)が聖堂を修復したときの残金までたどった。グラスゴー市議会は1583年2月27日に聖堂を修復する責任を認めることを決議したが、義務ではないとも記録した。この決議により聖堂は宗教改革を生き残り、聖堂内にある内陣仕切り(Rood screen)はスコットランドの聖堂において現代まで残った数少ないものの1つである。
グラスゴー大聖堂外観・wikipedia-photo
グラスゴー大聖堂正面・wikipedia-photo
後方から見た身廊の眺め・wikipedia-photo
グラスゴー大聖堂内陣・wikipedia-photo
グラスゴー大聖堂主祭壇・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、グラスゴー大聖堂の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・グラスゴー大聖堂より)]
[6世紀、聖マンゴー(Saint Mungo)によって作られた教会からグラスゴーの街が始まったといわれています。大聖堂の創建は12世紀になってから。その後何度も増築され今の形になったのは15世紀のことです。宗教改革の時、スコットランド中のほとんどの教会は破壊されてしまいましたが、この大聖堂はそれを免れて現存しているもののひとつです。 内部の高いアーチ型の天井、それを支える太い柱、大きな窓と美しいステンドグラスは「荘厳」という言葉が本当にふさわしく圧倒されます。地下にも聖堂がある珍しい造りですが、そこに聖マンゴーのお墓(St. Mungo’s Tomb)があります。 (「グラスゴー大聖堂[グラスゴー・カテドラル] | ロンドンナビ」より)]
[グラスゴー教区は、北端のラスから南はグレトナまで、全部で200以上の小教区を含む広大な地域で、グラスゴー大聖堂周辺の「管区」 とロットンロー道沿いには教会関連の建物が林立していました。ここは大聖堂総会に属する参事がグラスゴー滞在中の住居であり、その参事の多くはグラスゴー教区内の小教区の管理をまかされていました。参事は教区民が納めるカラス麦や大麦で生計を立てていました。
1560年、ジョン・ノックス(英: John Knox、1510年 – 1572年11月24日)の率いる宗教改革がスコットランドのカトリック教会を滅ぼし、長老派教会の制度、もしくは牧師と長老で構成される教会組織がそれまでの教会組織にとってかわりました。大聖堂そのものは取り壊しを免れましたが、周囲の建物は一般市民の所有物となったり、荒れ果てたりしてしました。17世紀中頃までに、聖ニコラス施薬院と礼拝堂も荒れ果て、19世紀の初頭には遂に取り壊されてしまいました。
大聖堂周辺は、宗教改革ですっかり様変わりしました。プロバンド領主館の東側に建っていた「主教の城」は18世紀中頃までに荒れ果て、1792年に取り壊され、現在はロイヤル病院が建っています。「キャメロン主教の塔」を含む敷地プロバンド領主館の一部には、現在1993年にオープンした「信仰生活と芸術の聖マンゴ博物館」が建っています。北側に建っていたゴバンの参事館は1870年代までに取り壊されたので中世の周辺区画で残っているのはプロバンド領主館だけになりました。 (「小咄の森 プロバンド領主館 グラスゴー Provand’s Lordship …」より)]
グラスゴー大聖堂平面図(「Glasgow Cathedral plan of altars」より)
カメラ東方向がグラスゴー大聖堂西ファサードです。
グラスゴー大聖堂正面扉前のカメラです。
グラスゴー大聖堂南面西サイドのストリートビューです。
グラスゴー大聖堂南面東サイドのストリートビューです。
グラスゴー大聖堂北面のストリートビューです。
グラスゴー大聖堂拝廊のカメラです。
グラスゴー大聖堂身廊のカメラで、カメラ先に内陣障壁があります。
内陣障壁前のカメラで、カメラ北方向は地下礼拝堂への降口です。
グラスゴー大聖堂内陣のカメラです。
グラスゴー大聖堂祭壇前のカメラです。