マーカーはグラスゴー芸術学校です。
グラスゴー芸術学校
[グラスゴー芸術学校GSAはスコットランドで唯一の独立した芸術学校である。大学相当の高等教育機関(Higher Education)であり、大学として扱われることもある。建築、ファインアートとデザインで有名。日本ではグラスゴー美術大学、グラスゴー芸術大学、グラスゴー美術学校などの表記がある。
1845年にグラスゴー政府デザイン学校 Glasgow Government School of Designとして設立される。
1853年にグラスゴー芸術学校 The Glasgow School of Artに改名。
当初12イングラム・ストリートにあったが1869年にマクレラン・ギャラリーズ(McLellan Galleries)に移転。
学校の拡張と名声の高まりを受け1897年に現在のレンフルーストリートに新校舎建造開始。デザインは学長に指名された同市出身かつ同校出身のチャールズ・レニー・マッキントッシュ。1899年建造開始から30年で校舎の片側が完成。もう片側の完成はその10年後の1909年。
校舎はその後も拡張を続け、2009年には国際的に建築設計競技により建築家によって率いられたチームを選定することになった。設計案はキャンパスのマスタープランと校舎の第一期工事までのデザイン。レンフルーストリートを挟んでマッキントッシュ設計の旧校舎「マッキントッシュ・ビルディング」の反対側に位置する第一期工事の行われる敷地には3つの校舎が建っていたが1つを残し取り壊された。コンペにはニューヨークのスティーヴン・ホールアーキテクツとグラスゴーに本拠をもつJMアーキテクツのチームが勝利した。
マッキントッシュ棟は2014年5月23日に起きた火災によりひどく損傷してしまった。損傷の範囲と建物を今後どうするかについてはまだ報告されていない。消防署の当初の予測では、校舎の90%とその内容物の70%は無事であるという。 (wikipedia・グラスゴー芸術学校より)]
[1897年、グラスゴー美術学校の理事会による指名設計競技で C.R.マッキントッシュ(ハニマン・アンド・ケピー事務所のドラフトマン)の作品が入選。
工事は予算の都合で二期に渡って行われました。
第一期 1897~99 中央入り口と二階のミュージアムを含む東側のゾーン
第二期 1907~09 図書室を含む西側のゾーン (「62-Glasgow School : 近代建築ゼミ Modern Architecture」より)]
「グラスゴー芸術大学 – Google Map 画像リンク」「Mackintosh School Of Architecture – Google Map 画像リンク」
カメラ南方向がグラスゴー芸術学校です。
チャールズ・レニー・マッキントッシュ
[チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh, 1868年6月7日 – 1928年12月10日)は、スコットランドの建築家、デザイナー、画家。アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者であり、スコットランドにおけるアール・ヌーヴォーの提唱者の一人でもある。
チャールズ・レニー・マキントッシュは1868年6月7日、警察官の父ウィリアム・マッキントッシュと母マーガレット・レニーの四男としてスコットランド、グラスゴーに生まれた。幼少の頃より足と目に障害を持っていたが、スコットランドの風土に触れる機会には恵まれ、多くのスケッチを描いた。
16歳の時(1889年)に、グラスゴーの建築家ジョン・ハッチソンの下に弟子入りし、同時にグラスゴー美術学校の夜間部にデザインとアートの勉強をのため入学。在学中には多くの学校賞を受賞。後の妻となるマーガレット・マクドナルド、その妹であるフランセス・マクドナルド、そしてハニーマン&ケッピー事務所での同僚でもあるハーバート・マックニーと出会っている。チャールズを含むこの4人は、ザ・フォー(The Four)と呼ばれ、グラスゴー、ロンドン、ウィーンの各地で展覧会を開き、その評判はマッキントッシュの名声を確立させるに至った。いわゆる、「グラスゴー・スタイル」と呼ばれるこの展覧会は、ヨーロッパ各地でその後も開かれ、ウィーン分離派に影響を与えたと言われる。
1889年、ジョン・ハッチソンの事務所から、ハニーマン&ケッピー設計事務所(1901年以後は、マッキントッシュのパートナーとなる。)に移り、製図係として働く。1890年、アレクサンダー・トムスン旅行奨学金に応募しこれを獲得。翌1891年イタリア旅行に出かける。
27歳の若さで、母校でもあるグラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペに優勝。グラスゴーのティー・ルーム(Willow Tea Room)のインテリアデザイン、ヒル・ハウスの設計などをした。
当時、建築家としての名声が得られなかったマッキントッシュは、建築の仕事がなくなってしまい、後年南フランスに移り水彩画家に転向した。
1928年、喉の癌のためにロンドンで死去。クライズデール銀行が発行する100ポンド紙幣に肖像が使用されている。
作品・建築
●ライトハウス(1893年)
●グラスゴー芸術学校(1899年)
●クイーンズ・クロス・チャーチ(1897年)
●デイリー・レコード・ビルディング(1900年)
●ハウス・フォー・アート・ラバー(1900年、実現せず、1996年建設)
●ウィロー・ティルーム(1903年)
●ヒルハウス(1904年)
●マッキントッシュ・ハウス(フロレタイン・テラス)[1906年、現・ハンタリアン・アート・ギャラリー]
●グラスゴー美術学校 図書館(1909年) (wikipedia・チャールズ・レニー・マッキントッシュより)