ハウス・フォー・アート・ラバー

マーカーはハウス・フォー・アート・ラバーです。

ハウス・フォー・アート・ラバー(House for an Art Lover)
[ハウス・フォー・アート・ラバー(1900年、実現せず、1996年建設)

「ハウス・フォー・アート・ラバー」北ファサード・wikipedia-photo

「ハウス・フォー・アート・ラバー」南ファサード・wikipedia-photo

ダイニング ルーム・wikipedia-photo

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[House for an Art Lover(芸術愛好家の家)
設計: C.R.Mackintosh 設計年次: 1901年 場所: Beliahouston Park
マッキントッシュが生存中には完成しなかった住宅です。ドイツの出版業者をクライアントにした設計案です。近年、グラスゴー市と熱心なマッキントッシュ研究者(建築家)の尽力によって完成しました。  (「マッキントッシュ|芸術愛好家|ヒルハウス|グラスゴー美術 …」より)]

House for an Art Lover – Google Map 画像リンク

カメラ南西方向がハウス・フォー・アート・ラバー進入路です。

ハウス・フォー・アート・ラバー南側の360citiesです。

ハウス・フォー・アート・ラバー内のカメラです。

チャールズ・レニー・マッキントッシュ
[チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh, 1868年6月7日 – 1928年12月10日)は、スコットランドの建築家、デザイナー、画家。アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者であり、スコットランドにおけるアール・ヌーヴォーの提唱者の一人でもある。
チャールズ・レニー・マキントッシュは1868年6月7日、警察官の父ウィリアム・マッキントッシュと母マーガレット・レニーの四男としてスコットランド、グラスゴーに生まれた。幼少の頃より足と目に障害を持っていたが、スコットランドの風土に触れる機会には恵まれ、多くのスケッチを描いた。
16歳の時(1889年)に、グラスゴーの建築家ジョン・ハッチソンの下に弟子入りし、同時にグラスゴー美術学校の夜間部にデザインとアートの勉強をのため入学。在学中には多くの学校賞を受賞。後の妻となるマーガレット・マクドナルド、その妹であるフランセス・マクドナルド、そしてハニーマン&ケッピー事務所での同僚でもあるハーバート・マックニーと出会っている。チャールズを含むこの4人は、ザ・フォー(The Four)と呼ばれ、グラスゴー、ロンドンウィーンの各地で展覧会を開き、その評判はマッキントッシュの名声を確立させるに至った。いわゆる、「グラスゴー・スタイル」と呼ばれるこの展覧会は、ヨーロッパ各地でその後も開かれ、ウィーン分離派に影響を与えたと言われる。
1889年、ジョン・ハッチソンの事務所から、ハニーマン&ケッピー設計事務所(1901年以後は、マッキントッシュのパートナーとなる。)に移り、製図係として働く。1890年、アレクサンダー・トムスン旅行奨学金に応募しこれを獲得。翌1891年イタリア旅行に出かける。
27歳の若さで、母校でもあるグラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペに優勝。グラスゴーのティー・ルーム(Willow Tea Room)のインテリアデザイン、ヒル・ハウスの設計などをした。
当時、建築家としての名声が得られなかったマッキントッシュは、建築の仕事がなくなってしまい、後年南フランスに移り水彩画家に転向した。
1928年、喉の癌のためにロンドンで死去。クライズデール銀行が発行する100ポンド紙幣に肖像が使用されている。
作品・建築
ライトハウス(1893年)
グラスゴー芸術学校(1899年)
クイーンズ・クロス・チャーチ(1897年)
デイリー・レコード・ビルディング(1900年)
●ハウス・フォー・アート・ラバー(1900年、実現せず、1996年建設)
ウィロー・ティルーム(1903年)
●ヒルハウス(1904年)
マッキントッシュ・ハウス(フロレタイン・テラス)[1906年、現・ハンタリアン・アート・ギャラリー]
●グラスゴー美術学校 図書館(1909年)  (wikipedia・チャールズ・レニー・マッキントッシュより)

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