マーカーはジュネーヴ美術・歴史博物館です。
ジュネーヴ美術・歴史博物館(英語:Musée d’Art et d’Histoire (Geneva)、フランス語:Musée d’Art et d’Histoire de Genève)
[紀元前から現在に至るまでの西洋文化と芸術を網羅する総合的なミュージアム。特別企画展は有料ですが、常設展は無料です。
1903〜1910年に建てられた重厚な建物の5フロアにわたる約7000㎡の展示スペースに、考古学、美術、工芸などの約65万点に及ぶ膨大な数のコレクションの一部となる約7000点を一般公開しています。
考古学部門では先史時代の出土品など47000点、エジプト、ギリシア、ローマ、エトルリアの約26000点の貴重な美術工芸品の数々や各時代のコインやメダルを約10万点所蔵。
美術部門ではとくにルネサンスから現代まで約6200点のヨーロッパ絵画を中心に、約27000点のデッサン(素描)やパステル画、ロダンや ヘンリー・ムーア、ティンゲリーなど約1400点の彫刻・造形作品、35万点に及ぶ版画作品を収蔵しています。スイス人画家フェルディナント・ホドラー、フェリックス・ヴァロットンの作品やフランス人画家ジャン=バティスト・カミーユ・コローの作品も数多く、ジュネーヴのかつての風景を描いた作品なども必見です。
また工芸部門には、約4000点の武器・武具、約8000点の家具や食器、タピスリーやレース、衣装など約1万点のテキスタイル、16世紀から19世紀のヨーロッパの古楽器コレクションなど。また、かつてサンピエール大聖堂にあった15世紀の祭壇裏の飾りやステンドグラスの展示室、壁の木彫装飾や陶器のストーブなど、17世紀のツィツェール城にあった見事な室内装飾をそのまま移築・再現した部屋などもあります。
■開館時間 – 11:00-18:00
■休館日 – 月曜 (「ジュネーヴ美術・歴史博物館 | スイス政府観光局 – Switzerland …」より)]
美術歴史博物館の正面ファサード・wikipedia-photo
ジュネーヴ美術・歴史博物館 – 美術歴史博物館の北西正面・wikipedia-photo
ヘンドリック・アーフェルカンプ作『イゼルムイデンの冬のシーン』(1613作)(commons.wikimedia)
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー作『モンマルトルの風車』(1840年から1845年の間)(commons.wikimedia)
カミーユ・ピサロ作『Quai de la Bourse、ルーアン、雨』(1898年)(commons.wikimedia)
フィンセント・ファン・ゴッホ作『ライラック、ヒナギクとアネモネのある花瓶』(1887年夏)(wikipedia-photo)
[1886年2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されている弟テオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通り(Rue Lepic)のアパルトマンに2人で転居した。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。
同居のテオとは口論が絶えず、1887年3月には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしている。他方、その頃から、ファン・ゴッホは印象派や新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになった。テオもこれを評価する手紙を書いている。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#パリ(1886年-1888年初頭)より)]
フィンセント・ファン・ゴッホ作『麦畑、背景にオーヴェル』(1890年7月)(wikipedia-photo)
(拡大画像リンク)
[1890年5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。
ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた。このころ、弟テオに大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』)を描き上げたことを伝えている。
7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)より)]
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カメラ南南西方向がジュネーヴ美術・歴史博物館です。