ストラスブール市庁舎

マーカーはストラスブール市庁舎です。

ストラスブール市庁舎
[ストラスブール(シュトラースブルク)の語源はドイツ語で「街道の街」であり、交通の要衝として栄える。ライン川フランス最大の河川港をもち、交通の便の良さから商工業が盛んである。
かつてはドイツ神聖ローマ帝国に属したが、近世初頭にドイツの混乱に乗じてフランスが侵略して併合する。以降、ドイツとフランスが領有権を争った土地として有名である。言語や文化の上ではドイツ系であるといえるが、1944年以降、政治的にはフランスに属する。
現在は欧州評議会欧州人権裁判所、またEU欧州議会の本会議場を擁し、ベルギーブリュッセルと共にEUの象徴的な都市の一つとなっている。
2007年6月10日にはTGV東ヨーロッパ線が開業し、パリ東駅と2時間20分で結ばれた。
ローマ人が都市をきずき、当時は「アルゲントラトゥム」Argentoratumとよばれた。ローマ帝国がライン川をゲルマニアとの国境としていたので、この地はローマ領であった。4世紀以来、司教座がおかれている。455年にフン族に破壊されたが、フランク族によって再建され、後に神聖ローマ帝国に属した。カトリック教会がシュトラースブルク司教座を設置。毛織物業も発展成立し、交通の要衝でもあったシュトラースブルクは大いに発展する。当時の司教ヴァルター・フォン・ゲロルズエック(Walter von Geroldseck, 1231年 – 1263年)の軍隊をハウスベルゲンの戦いにて打ち破り、1262年に自由都市となった。ルネサンス期の宗教改革では、はやくも1523年にプロテスタントをうけいれ、市内にはカトリックとプロテスタントの教会が並んで建てられるようになった。
17世紀、フランス王ルイ14世の膨張政策が自然国境論のもとこの地域に触手を伸ばし、三十年戦争でドイツ圏のエルザス・ロートリンゲン地方(アルザス=ロレーヌ地方)を獲得すると、1697年に大同盟戦争の講和条約であるレイスウェイク条約によりフランス王国の領域に入り、シュトラースブルクはフランス語風にストラスブールと呼ばれるようになる。しかし、普仏戦争プロイセンが勝利すると、アルザス=ロレーヌ地方はドイツ帝国領に復帰。その後、第一次世界大戦でフランスが勝利すると1919年に同地域は再びフランス領となる。第二次世界大戦でも独仏戦の戦火にあい、1940年にドイツが自国領とするが、1944年に連合国が奪還している。
第二次大戦後は「ヨーロッパの歴史を象徴する都市」として、欧州の主要な国際機関が置かれている。1988年には、ライン川の支流イル川の中洲にある旧市街が「ストラスブールのグラン・ディル」としてユネスコ世界遺産に登録された。  (wikipedia・ストラスブールより)]

Hôtel de Ville de Strasbourg – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向がストラスブール市庁舎正門です。

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