アルカサル(王宮)

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    アルカサル(王宮)(英語:Alcázar of Seville、スペイン語:Real Alcázar de Sevilla)
    [セビリア大聖堂の南東にある城塞です。8世紀に造られたイスラム王家の要塞を、イスラムからの奪回後の14世紀にペドロ1世_(カスティーリャ王)グラナダの建築家に建てさせたものです。透かし模様やアラベスク模様などイスラムの影響の強いムデハル様式で、「大使の間」、「天井の間」などの金を基調とした内装や、アルハンブラ宮殿と比せられる中庭の「乙女のパティオ」などの見所があります。 (「スペインの観光地」より)]

    [アルカサル(Real Alcázar de Sevilla)は、スペインセビリアにあるスペイン王室の宮殿である。14世紀、ペドロ1世の命により、イスラム時代の宮殿の跡地にムデハル様式で建設が始められた。グラナダアルハンブラ宮殿を意識した構造になっている。15世紀から16世紀にも増築されたため、ゴシックルネサンスなどの様式も混じっている。1987年、アルカサルは「セビリアの大聖堂、アルカサル、インディアス古文書館」の一部としてユネスコの世界遺産に登録された。

    アルカサル(王宮)ライオン門・wikipedia-photo

    ペドロ1世宮殿のファサード・wikipedia-photo

    大使の間・wikipedia-photo

    乙女の中庭(Patio de las Doncellas)・wikipedia-photo

    マーキュリーの池(Estanque de Mercurio)・wikipedia-photo

    ダンサの庭(Jardín de la Danza)・wikipedia-photo

    庭園の路地・wikipedia-photo

    ウィキメディアコモンズには、アルカサル(王宮)(セビリア)の画像またはその他のファイルが含まれています。  (wikipedia・アルカサル_(セビリア)より)]

    マリア・デ・パディーリャの浴槽
    [マリア・デ・パディーリャ(María de Padilla, 1334年 – 1361年)は、カスティーリャペドロ1世の愛妾。ペドロ1世はマリーアを最も愛し、一方で王妃ブランカ・デ・ボルボーンを幽閉していたため、マリアが実質的な王妃であった。青池保子の漫画『アルカサル-王城-』の影響もあり、マリア・デ・パデリアの表記も広く用いられる。また、カスティーリャ語では「マリーア・デ・パディージャ」のようにも発音される。
    セビーリャのアルカサルの地下には、「マリア・デ・パディーリャの浴槽」と呼ばれる雨水タンクがある。
    「マリア・デ・パディーリャの浴槽」・wikipedia-photo

      (wikipedia・マリア・デ・パディーリャより)]


    ライオンの門の入り口(Entrada Puerta del Leon)、1.ライオンの中庭(Patio del Leon)、4.狩猟の中庭、5.ペドロ1世宮殿のファサード、6.提督の間(Salon del Almirante)、7.謁見の間(Sala de las Audiencias)、10.乙女の中庭(Patio de las Doncellas)、13.カルロス5世天井の間(Salon del techo de Carlos V)、15.大使の間(Salon de Embajadores)、16.人形の中庭(Patio de las Munecas)、18.フェリペ2世天井の間(Sala del techo de Felipe)、31.クルーズの中庭(Patio del Crucero)、32.33.アルフォンソ10世の宮殿、34.マリア・デ・パディーリャの浴槽(Alcazar sevilla maria pool)入口、36.ガレーの庭(Jardín de la Galera)、37.トロイの庭(Jardín de Troya)、38.ダンサの庭(Jardín de la Danza)、39.マーキュリーの池(Estanque de Mercurio)、40.グルテスコ歩廊(Gareria del Grutesco)、51.マルケナ門(Puerta de Marchena)、50.レティロ公園(Jardin del Retiro)、パテオ・デ・バンデラス広場(Plaza del Patio de Banderas)

    『スペイン カテドラル、アルカサル セビリア』セビリア(スペイン)の …

    アルカサル – Google Map 画像リンク」、「Real Alcazar of Seville – Google Map 画像リンク」、「Patio de Doncellas – Google Map 画像リンク」、「Jardines alcazares – Google Map 画像リンク」、「Biodiversity Forum – Google Map 画像リンク」、「Patio de Banderas Quart.ebraico – Google Map 画像リンク」、「El Arcipreste Del Patio Dd Banderas – Google Map 画像リンク

    カメラ南東方向がアルカサル(王宮)の城門(ライオンの門)です。

    ライオンの中庭のカメラで、カメラ初期設定方向がイスラム時代の城門です。

    狩猟の中庭のカメラで、カメラ南東方向がペドロ1世宮殿のファサードです。

    ペドロ1世宮殿のファサード入り口のストリートビューです。

    フェリペ2世天井の間のストリートビューです。

    大使の間のストリートビューです。

    乙女の中庭のストリートビューです。

    クルーズの中庭(Patio del Crucero)のカメラです。

    カメラ位置はクルーズの中庭(Patio del Crucero)の南回廊で、アルフォンソ10世の宮殿前のストリートビューです。

    アルフォンソ10世の宮殿礼拝堂のストリートビューです。

    マリア・デ・パディーリャの浴槽(雨水タンク)の360citiesです。

    カメラ南南東方向門が出口で、門先がパテオ・デ・バンデラス広場(Plaza del Patio de Banderas)です。

    ペドロ1世 (カスティーリャ王)
    [ペドロ1世(Pedro I, 1334年8月30日 – 1369年3月23日)は、カスティーリャ王国の国王(在位:1350年 – 1366年、1367年 – 1369年)。そのふるまいから残酷王(Pedro el Cruel)または正義王(Pedro el Justiciero)ともいわれる。名前もあだ名も同じで混同されやすいが、同じく「正義王」「残酷王」と呼ばれるポルトガル王国ペドロ1世は叔父にあたる。
    1334年、カスティーリャ王アルフォンソ11世とポルトガル王アフォンソ4世の娘マリア(ポルトガル王ペドロ1世の姉)の間に生まれる。1350年、父が病死すると即位したが家臣の傀儡にすぎず、反発するも母マリアの裏切りもあり、逆に押さえ込まれてしまった。しかし、すぐに家臣たちは仲間割れを始め、その期に乗じて実権を握った。このとき母をポルトガルに追放した。異母兄にあたる父の庶子エンリケ・デ・トラスタマラ(後のエンリケ2世)も国外へ逃亡し、敵対する。
    こうして始まった治世は、有力貴族を弾圧して王権強化策をとり、下級貴族の文官やユダヤ人を登用した。しかし、エンリケが1366年に国内の多くの不平分子を結集して武装蜂起した。反乱軍は、アラゴン連合王国ペドロ4世フランス王国シャルル5世と同盟していた。ペドロ1世はフランス王族の第2代ブルボン公ピエール1世の娘ブランシュと結婚していたが、折り合いが悪く、彼女を幽閉していたためにフランス王室が反発していた。これに対しペドロ1世は、一時的には国を追われたが、グラナダ王と結び、イングランド王国エドワード黒太子に領土の割譲を条件に軍事援助を受け、1367年のナヘラの戦いでは勝利した。
    だが、ペドロ1世が約束の領土の割譲を渋ったことと病気(ペストではないかとの説もある)のために黒太子は戦線を離脱し、イングランドへ帰ってしまう。戦況は不利になり、ペドロ1世は1369年のモンティエールの戦いで敗北、戦死した(または捕らえられて処刑されたともいう)。ペドロ1世を破ったエンリケはエンリケ2世として即位し、トラスタマラ王朝の祖となった。
    カスティーリャ王ペドロ1世・wikipedia-photo、処刑されるペドロ1世とそれに見入るエンリケ・wikipedia-photo  (wikipedia・ペドロ1世_(カスティーリャ王)より)]

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