マーカーはセビリア市庁舎です。
セビリア市庁舎
[古代ローマ時代には「ヒスパリス」(ラテン語: Hispalis)と呼ばれた。紀元前8世紀か9世紀にタルテソスにより支配され、のちにフェニキア人やカルタゴ人の植民都市となった。カルタゴ人は紀元前216年に都市を破壊したが、紀元前206年にスキピオが近郊にイタリカ(Italica)を建設し、ヒスパリスの再建を始めた。
8世紀よりイスラム勢力(ウマイヤ朝・661年 – 750年、後ウマイヤ朝・756年 – 1031年)の支配下に入り、「イスビリヤ(إشبيلية; ’ishbīlīya, Isbilya)」と呼ばれるようになった。タイファ諸国の分立期には、セビーリャ王国(アッバード朝・1023年? – 1091年、ムラービト朝・1091年 – 1147年、ムワッヒド朝・1147 – 1248年)が栄えた。レコンキスタ(718年 – 1492年)の進展により、1248年にカスティーリャ王国のフェルナンド3世(在位:1217年 – 1252年)に征服され、以降はカスティーリャ王国の主要都市として発展した。
イタリアのジェノヴァ商人がセビリアに拠点をおいて積極的な活動を行っており、中世より港湾都市として栄えた。当初はキリスト教徒とユダヤ教徒の共存がみられたが、14世紀半ばのペスト(黒死病)大流行の原因がユダヤ人に帰されるなど反ユダヤ主義の風潮が強まり、14世紀末にはポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こった。この動きは他の都市にまで波及し、多くのユダヤ人が迫害を受けた。
15世紀後半、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国は、同世紀末にレコンキスタ(1492年1月6日、アルハンブラ宮殿が陥落)を完了させるとともに新大陸へ船を進めた。イベリア半島西岸と航路で結ばれているセビリアは、アメリカとの貿易の独占港となって繁栄を誇った。16世紀から17世紀には、セビリアはスペインでもっとも人口の多い都市となり、1649年には13万人を数えた。その年にペストが大流行し、セビリアは重要性を失い始めたが、バロック美術の中心地として重要性を保った。
19世紀のスペイン立憲革命では、セビリアは自由主義者の拠点となった。20世紀のスペイン内戦(1936年7月 – 1939年3月)では、アフリカに近い位置にあることから早期にフランコ軍に占領された。
1992年にはセビリア万博が開催された。万博に合わせて、グアダルキビール川にはアラミロ橋が建設された。2002年には欧州理事会の会場となった。 (wikipedia・セビリアより]
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カメラ東方向がセビリア市庁舎です。
セビリア市庁舎裏側のカメラです。