ヴィシェフラット(ターボル門)

マーカーはターボル門です。

ターボル門

Táborská Brána – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向がターボル門です。

カメラ東南東方向がターボル門です。

ヴィシェフラット
[ヴィシェフラット(Vyšehrad)は、チェコプラハにある丘の城跡である。ヴィシェフラットという言葉は「高い城」を意味する。またこの地区の地区名でもある。ヴィシェフラットの丘に城が築かれるようになったのは10世紀も後半のころである。これはプラハ城より後のことである。ただし、それ以前から人の手の加わっていた跡はある。現在に至るも城の建つ以前のヴィシェフラットについて詳しいことはわかっていない。ヴィシェフラットは当時のプラハ市域の外にあって、ヴルタヴァ川の東からプラハと川を押さえる大事な拠点であった。ヴラチスラフ2世(プシェミスル家ボヘミア公・在位:1061年 – 1092年、マイセン辺境伯・在位:1076年 – 1089年、後に初代ボヘミア王・在位:1085年 – 1092年)はプラハ司教との権力争いもあって、プラハ城からヴィシェフラットに居城を移し、ここに司教座聖堂参事会を置いて司教に対抗した。また、今に伝わる聖マルチン円形聖堂聖ペテロ・パウロ教会を建造した。ヴィシェフラットにはプラハとは別に独自の街があり、玉座があったころにはプラハ並み、あるいはそれ以上の賑やかさがあったという。しかし、ソビェスラフ1世(在位:1125年 – 1140年)の時に居城はプラハ城に戻り、以降、プラハでは城と街の拡張が断続的に行われた。カレル王(カール4世モラヴィア辺境伯・在位:1334年 – 1349年、ボヘミア王カレル1世・在位:1346年 – 1378年、神聖ローマ皇帝・在位:1355年 – 1378年)によるプラハの大拡張で、プラハを囲む長大な市壁がヴィシェフラットに接続されることになり、ヴィシェフラットはプラハの南端に構える要塞として、十五の塔の聳える強力な城に改造され、宮殿や聖堂も整備された。ただしヴィシェフラットの街の市政はプラハ市とは独立している。フス戦争(1419年 – 1439年)において、広大なプラハはカトリックフス派両者の争奪戦に曝された。市街がフス派の占領するところだったので、プラハ城とヴィシェフラットがカトリック側の頼りだった。フス派としてもこの城を放置し続けてはプラハが危ういため、ヴィシェフラットに大規模な攻撃を行った。ヴィシェフラットの戦いである。この戦いで勝利したフス派は城を徹底的に破壊し、彼らにとって堕落的と思われた教会とその財産も破壊された。教会や聖堂は後に再建されたが、城の再建はもはやされなかった。ハプスブルク君主国(1526年 – 1918年)のもとで、ヴィシェフラットは大砲時代に適応した要塞として整備を受けたほか、軍の駐屯地として使用されていた。1883年にヴィシェフラットの街はプラハ市政に統合された。このころから、チェコの民族主義運動に伴い、半ば打ち捨てられていたヴィシェフラットも注目されるようになっていた。公園として整備され、現在に至る。
ヴルタヴァ川とヴィシェフラット・wikipedia-photo、ヴィシェフラットから川を見下ろす・wikipedia-photo、ライトアップされた夜のヴィシェフラット・wikipedia-photo、ターボル門・wikipedia-photo  (wikipedia・ヴィシェフラットより)]

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