ヴィシェフラット(煉瓦門)

マーカーは煉瓦門です。

煉瓦門
[百科事典によると砲郭は城壁の中の回廊である。この通路を使用する事によって、敵に気づかれずに軍隊の移動が可能であった。1654年、フェルディナンド3世(ボヘミア王・在位:1627年 – 1646年、神聖ローマ皇帝・在位:1637年 – 1657年)は大規模な砦と城壁の建設を命じた。その計画とは、当時のプラハ市の一番外れにあるヴィシェフラッドという町をすべて軍用地に変え、プラハ市を守るというものであった。その設計の中には、カレル4世(カール4世モラヴィア辺境伯・在位:1334年 – 1349年、ボヘミア王カレル1世・在位:1346年 – 1378年、神聖ローマ皇帝・在位:1355年 – 1378年)によって作られた地区も含まれていたが、幸いな事に計画の一部は実現までには至らず、その地区は現在にまで残されている。
1678年までに城壁が今の形になった。初めて役に立つ機会は1742年にデ・ベルヂケ-ル将軍(de Berdiquiere)がフランス軍隊をプラハへ連れて来るときであった。フランス軍隊は堤防、新地区側の半月形堡、砲郭を建てた。ヴィシェフラッド砦は大規模であった為、建築に長い年月を要し、また次々に進歩改良される武器に備えられるよう、その後は改築ばかりであった。この砦は、18~19世紀にできた他のチェコの砦と同様、一切戦いには使用されなかった。三十年戦争(1618年 – 1648年)後プラハ市を守る要塞の必要性がなくなると、他の砦は取り壊されたが、ヴィシェフラッド砦だけは唯一プラハ要塞構造を知る例として残されている。
1744年11月、プロシア戦争(第二次シュレージエン戦争)が終わるころ、プロシア軍隊が砲郭に133個の火薬樽を入れて爆発させるつもりであったが、近くに住んでいたプラハ市民が導火線を抜いて、ヴィシェフラッドを助けたというエピソードがある。
砲郭の出入り口は1841‐1842年の間にできた煉瓦門(Cihelná brána)の両側にある。右側にゴルリツェ(Gorlice)という地下のホールがあり、そこは軍人の召集場所、食料と軍需品の倉庫として使用されていた。砲郭は、煉瓦門の両側に延びるそれぞれ長さ1キロ弱、高さ最低2㍍、幅約1.5㍍の回廊からなっている。
ゴルリツェ・ホールはバロック式城壁の第33部にあり、砲郭の最大ホールである(330平方メートル、高さ13㍍)。20世紀に、ゴルリツェは防空壕、野菜の倉庫として利用され、1990年代に修復されてからは観光地として脚光を浴びるようになった。1992年からはそのホール内でカレル橋の石像のオリジナル〔聖ベルナルドとマドンナ(M.V.Jackel, 1709)、聖アウグスチネ、トレントの聖ニコラウス(J.B.Kohl, 1708)、聖ヴォイチェフ(F.M.Brokof, 1709)、聖アンナ(M.V.Jackel, 1707)、聖ルドミラと少年代の聖ヴァツラフ(M.B.Braun, 1720-1724)〕が保管されている。
1971年以降、砲郭とゴルリツェは重要文化財ヴィシェフラッド管理局に管理されており、1990年代後半からは、ヴィシェフラッドの砲郭で夏の現代美術展が開催されている。  (「NKP Vyšehrad: Gorlice-地下ホール」より)]

[この砲廊は1742年に築かれ、天井までの高さが2mの銃眼の開いている細い地下通路。地下通路は、かつて軍隊の宿営所として使われていた広さ330平方メートル・高さ13メートルの巨大空間に繋がっています。20世紀に、防空壕、野菜の倉庫として利用されていましたが、1990年代に修復され、1992年からは“ゴルリツェ(Gorlice)”と呼ばれるギャラリーとなっていて、≪カレル橋≫を飾る彫刻のオリジナル像が展示されています。  (「ヴィシェフラッド/KASEMATY(秘密の回廊) | チェコが好き …」より)]

煉瓦の門 – Google Map 画像リンク」、「Vyšehradské Casemates – Google Map 画像リンク

カメラ南西方向が煉瓦門です。

カメラ北北西方向が煉瓦門です。

ヴィシェフラット
[ヴィシェフラット(Vyšehrad)は、チェコプラハにある丘の城跡である。ヴィシェフラットという言葉は「高い城」を意味する。またこの地区の地区名でもある。ヴィシェフラットの丘に城が築かれるようになったのは10世紀も後半のころである。これはプラハ城より後のことである。ただし、それ以前から人の手の加わっていた跡はある。現在に至るも城の建つ以前のヴィシェフラットについて詳しいことはわかっていない。ヴィシェフラットは当時のプラハ市域の外にあって、ヴルタヴァ川の東からプラハと川を押さえる大事な拠点であった。ヴラチスラフ2世(プシェミスル家ボヘミア公・在位:1061年 – 1092年、マイセン辺境伯・在位:1076年 – 1089年、後に初代ボヘミア王・在位:1085年 – 1092年)はプラハ司教との権力争いもあって、プラハ城からヴィシェフラットに居城を移し、ここに司教座聖堂参事会を置いて司教に対抗した。また、今に伝わる聖マルチン円形聖堂聖ペテロ・パウロ教会を建造した。ヴィシェフラットにはプラハとは別に独自の街があり、玉座があったころにはプラハ並み、あるいはそれ以上の賑やかさがあったという。しかし、ソビェスラフ1世(在位:1125年 – 1140年)の時に居城はプラハ城に戻り、以降、プラハでは城と街の拡張が断続的に行われた。カレル王(カール4世モラヴィア辺境伯・在位:1334年 – 1349年、ボヘミア王カレル1世・在位:1346年 – 1378年、神聖ローマ皇帝・在位:1355年 – 1378年)によるプラハの大拡張で、プラハを囲む長大な市壁がヴィシェフラットに接続されることになり、ヴィシェフラットはプラハの南端に構える要塞として、十五の塔の聳える強力な城に改造され、宮殿や聖堂も整備された。ただしヴィシェフラットの街の市政はプラハ市とは独立している。フス戦争(1419年 – 1439年)において、広大なプラハはカトリックフス派両者の争奪戦に曝された。市街がフス派の占領するところだったので、プラハ城とヴィシェフラットがカトリック側の頼りだった。フス派としてもこの城を放置し続けてはプラハが危ういため、ヴィシェフラットに大規模な攻撃を行った。ヴィシェフラットの戦いである。この戦いで勝利したフス派は城を徹底的に破壊し、彼らにとって堕落的と思われた教会とその財産も破壊された。教会や聖堂は後に再建されたが、城の再建はもはやされなかった。ハプスブルク君主国(1526年 – 1918年)のもとで、ヴィシェフラットは大砲時代に適応した要塞として整備を受けたほか、軍の駐屯地として使用されていた。1883年にヴィシェフラットの街はプラハ市政に統合された。このころから、チェコの民族主義運動に伴い、半ば打ち捨てられていたヴィシェフラットも注目されるようになっていた。公園として整備され、現在に至る。
ヴルタヴァ川とヴィシェフラット・wikipedia-photo、ヴィシェフラットから川を見下ろす・wikipedia-photo、ライトアップされた夜のヴィシェフラット・wikipedia-photo  (wikipedia・ヴィシェフラットより)]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*