アテネウム美術館

マーカーはアテネウム美術館です。

[Google アートプロジェクト] – 「アテネウム美術館

アテネウム美術館(英語:Ateneum、フィンランド語:Ateneumin taidemuseo)
[1750年代~1960年代までのフィンランド美術と、19世紀から20世紀の海外の美術品を展示しているフィンランドで最大の美術館。フィンランドを代表するアクセリ・ガッレン=カッレラやイサック・ワックリンなどの国内芸術家や、海外のエドヴァルド・ムンクフィンセント・ファン・ゴッホポール・ゴーギャンなどの作品も展示されています。  (「アテネウム美術館 Archive」より)]

[「アテネウム美術館は、テオドールHöijerによって設計されました」・wikipedia-photo、「ラファエロ・サンティペイディアスドナト・ブラマンテの胸像」・wikipedia-photo]

カフェ アテネウム(Cafe Ateneum)
[ヘルシンキ中央駅斜め向かいにあるアテネウム美術館内のカフェ、Tablo Ateneumです。私の行った時はちょうどイベントでちょっと慌ただしかったですが、カフェではスケッチしている人や日記?か何かを一生懸命つけている人がいました。さすが、美術館内のカフェ。アートな人たちがいましたよ!
アートなカフェです。アテネウム美術館に入場しなくてもカフェだけに行くことができます。隣にはショップがあるので、そこでアートでちょっと変わったお土産も買うことができますョ。天井がとっても高く、壁には写真のモザイク画や、他フィンランド人アーティストによる絵が飾られています。イスはアルヴァ・アールトデザインのアルテックのもの、そして食器はアラビア・イッタラが使われていて、店内はとってもお洒落。  (「Ateneumアテネウム美術館内のTablo Ateneumカフェ – フィンランド …」より)]

アテネウム美術館 – Google Map 画像リンク」「Finnish National Gallery – Google Map 画像リンク

カメラ南方向がアテネウム美術館です。

アテネウム美術館エントランスのストリートビューです。

アクセリ・ガレン-カレラ(Akseli Gallen-Kallela)作『愛野神話、トリプティク(1Aino Myth, Triptych)』(1891年)(wikipedia-photo)

アルベルト・エデルフェルトの作品左から『ルオコラハティの教会の外の女性(Women Outside the Church at Ruokolahti)』(1887年)(wikipedia-photo)、『ブランカ王妃』(wikipedia-photo)、『キリストとマグダラのマリア』(1890年)(wikipedia-photo)、一つ置いて『パリのリュクサンブール公園(The Luxembourg Gardens, Paris)』(1887年)

フェルディナンド・フォン・ライト(Ferdinand von Wright)作『The Fighting Capercaillies』(1886年)(wikipedia-photo)

アメデオ・モディリアーニ作『アーティスト・レオポルド・サーベージの 肖像(Portrait of the Artist Léopold Survage)』(1918年)(wikipedia-photo)

ポール・セザンヌ作『レストークの道路橋(The Road Bridge at L’Estaque)』(1879/1882年)(wikipedia-photo)

フィンセント・ファン・ゴッホ作『オーヴェル村の街』(1890年5月)

[1890年5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。
ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。
7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)より)]