マーカーはアレーヌ・ド・リュテスです。
アレーヌ・ド・リュテス
[アレーヌ・ド・リュテス(仏: Les Arènes de Lutèce)は、フランス・パリにある、ガロ・ローマ文化時代に作られた円形闘技場の遺跡。紀元1世紀に古代ローマによって建造され、17,000人を収容し剣闘士の闘技会に用いられたほか、円形劇場として演劇作品の上演や野生動物の披露も行われた。
楕円形をしたアリーナは対角線の長辺が52.5m、短辺が46.8m あり、闘技会と演劇上演を同時に行うことができた。アリーナは手すりのついた2.5m の壁によって囲まれ、その外側に観客席が広がる。壁には9つの壁龕(へきがん。壁のくぼみ)があり、これは音響増幅の効果があったと考えられる。観客席下段の直下には5つの小部屋が設けられており、うち3つはアリーナ側に出入り口が取られ、動物用の檻を備えた部屋だったことが分かっている。
奴隷や貧民、女性は上方の観客席を使わなければならず、下方の席は男性ローマ市民のために確保されていた。また快適さを保つため日射避けのためのリネンが張られていた。また観客席からはビエーヴル川(Bièvre)やセーヌ川も眺めることができた。
現在残るのは一部分で、反対側の観客席部分はモンジュ通り(Rue Monge)沿いの建物建築に際して失われ現存しない。
建造は紀元1世紀で、古代ローマによる建造物の中では最古級に属する。275年アラマンニ人の侵入によりセーヌ川左岸地区は放棄され、住人の多くがシテ島に移住した。この際アレーヌの一部がシテ島周辺の街の守りを固めるための石材として持ち出された。その後は墓地に転用され、さらに1210年ごろにフィリップ・オーギュストの城壁(Wall of Philip II Augustus)の建設に際して埋め立てられた。
「現在のアレーヌ・ド・リュテス」・wikipedia-photo、北側に残る観客席・wikipedia-photo (wikipedia・アレーヌ・ド・リュテスより)]
リュテス円形闘技場出入り口のストリートビューです。
リュテス円形闘技場中央のストリートビューです。
ルテティア
[ローマ時代のルテティアは、セーヌ川左岸 (Rive Gauche, 現カルティエ・ラタン地区)の、後にサント・ジュヌヴィエーヴ (Sainte Geneviève) となる丘に向う坂道の途中で発見された。ビエーヴル川がセーヌ川と交わる洪水の起こりがちな場所である。その合流点から渡った島、シテ島にはいくつかの住宅地区があった。シテ島はメロヴィング朝時代のパリ、そして現代のパリの中心地である。「ルテティア」という名前はカエサルの『ガリア戦記』(第7巻 第57〜58章)の中に初めて現れる。その名前はラテン語の「泥」に由来してお、ローマ人が避けた沼沢地を反映している。ローマ時代のルテティアは、規則正しい格子状の都市計画が施されたガロ・ローマ都市であり、西暦2年以降に公共建造物の建設が行われた唯一の地区でもある。丘陵地区の坂の途中に建設されたアレーヌ・ド・リュテス (Arènes de Lutèce, ルテティアの闘技場) として知られるアンピテアトルム (amphitheatre, 円形闘技場) は、ガリア地方における最大の建造物の1つだった。カエサルによるガリア征服の最中の紀元前52年、ルテティアは共和制ローマによって攻め落とされた。西暦360年、ルテティアはパリ (Paris) に改名された。その名前はガリア人のパリシイ族の名に由来するが、形容詞のパリシアクス (Parisiacus) は既に数世紀にわたり使われていた。同じころ、人口が新しく要塞ができたシテ島に集中するにしたがい、公衆浴場や劇場、円形闘技場のあったセーヌ川左岸地区は次第に見捨てられるようになった。紀元4世紀には劇場の解体が始まった。 (wikipedia・ルテティアより)]