ルーブル美術館

マーカーはルーブル美術館です。

ルーブル美術館(英語:Louvre、フランス語:Musée du Louvre)
[ルーヴル美術館(Musee du Louvre)は、パリにあるフランスの国立博物館である。メトロポリタン美術館アメリカ合衆国ニューヨーク)などと並んで世界最大級の美術館の1つであるとともに、アシュモリアン美術館(1683年)や、ドレスデン美術館(ツヴィンガー宮殿)(1744年)、バチカン美術館(1784年)と並んで、ヨーロッパで最も古い美術館の1つに数えられる。世界遺産パリのセーヌ河岸に包括登録されている。ルーヴル美術館は、パリの中心部、セーヌ川の右岸に位置し、ルーブル宮殿の大部分を占めている。その起源は12世紀末に建造の始まったパリの街を守護するための要塞であり、時代の変遷とともにフランス王家の宮殿、そして美術館へと変貌を遂げてきた。
セーヌ川の中洲であるシテ島は、中世においてもパリの中心地であった。都市の防衛という面で、街の中心を流れるセーヌ川自体が防御の弱点となっていた。そこで、カペー朝第7代の王・フィリップ2世_(フランス王)(フィリップ・オーギュスト、在位1180 – 1223)は、シテ島のわずかに下流のセーヌ右岸に城砦を築くことを命じた。1190年のことである。当時のルーヴルの遺構は、後のナポレオン3世の時代、1866年にも発掘調査が行われているが、本格的・学術的な発掘調査が行われたのは1984年から1986年のことである。この時に発掘されたドンジョンや城壁の一部は、そのままの形でシュリー翼の地下に保存され、一般に公開されている。
14世紀に入ると、ルーヴルの城塞としての意味合いは次第に薄れ、時の国王シャルル5世_(フランス王)(在位1364 – 1380)は、レーモン・デュ・タンブルに命じてルーヴル城を改修し、「要塞」のイメージが強かったルーヴルを、規模は従来のままで、華やかな「城館」(シャトー)へと造り替えた。その後もこの建物は歴代のフランス王によって拡大と改築が続けられていった。
太陽王ルイ14世(在位1643 – 1715年)もさらなる拡張計画を進め、1657年からは建築家ルイ・ル・ヴォーが中心となって、クール・カレ(方形中庭)の拡張、ならびにルーヴルとテュイルリー宮殿を結ぶ建物の工事が進められた。しかし、1678年にルイ14世がパリを離れ、ヴェルサイユ宮殿に滞在するようになってからルーヴルの工事は中断し、建物は王宮としての役割を果たさなくなった。ルーヴルは、すでにアンリ4世_(フランス王)(在位:1572年 – 1610年)の時代から芸術家や職人の住居やアトリエとして利用されていたが、この時代になると、さまざまな人々が宮殿内に住み着き、宮殿は荒廃していた。こうした中、1789年から始まったフランス革命のさなかにルーヴルを美術館とすることが決まり、1793年8月10日、「諸芸術の中央美術館」として正式に開館した。ただし、この時点での公開は限定的で、一般の人々への公開は1801年からとされている。
1871年にはパリ・コミューンの暴徒らが押し寄せ、テュイルリー宮殿が炎上した。炎上後の宮殿はかろうじて外観をとどめていたが、結局取り壊された。テュイルリー宮殿は、現・ルーヴルの西端に南北方向に建っていたが、その後は再建されていない。
1985年から1989年にかけて、ミッテラン政権下の「グラン・ルーヴル・プロジェ」(大ルーヴル計画)により大改築が行われた。主に地下部分に増築を行い、大蔵省等ルーヴル宮殿内にあった政府機関を移転して新たなギャラリーとするとともに、イオ・ミン・ペイ設計による、ガラスのピラミッドを中庭においてメインエントランスとし、その直下にインフォメーション・カウンターと各ギャラリー・店舗・食堂へのアクセス可能な大ホール(ナポレオン・ホール)を有する、近代的な美術館の面も持ち合わせるようになった。なお、美術館に直結する地下街にはやはりイオ・ミン・ペイの設計になる逆ピラミッドが設置されている。
ルーブル美術館・wikipedia-photo
ルーヴル美術館とルーヴル・ピラミッド(夜間)・wikipedia-photo、アポロンのギャラリー・wikipedia-photo、ナポレオン3世のアパルトマン・wikipedia-photo、「クラウン・ジュエル」・wikipedeia-photo、フィリップ2世時代に建造された要塞の一部・wikipedia-photo、「シャルル5世時代のルーヴル。『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より」・wikipedia-photoミロのヴィーナスwikipedia-photo、「モナ・リザ(1503-06年、レオナルド・ダ・ヴィンチ)」・wikipedia-photo、「イアサント・リゴー ルイ14世 1701年」・wikipedia-photoナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠(1805 – 1807年、ジャック=ルイ・ダヴィッド)・wikipedia-photo民衆を導く自由の女神(1830年ウジェーヌ・ドラクロワ)・wikipedia-photo  (wikipedia・ルーブル美術館より)]

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カルーゼル広場から見た、夜のルーブル美術館です。

カメラ東南東方向・ルーヴル・ピラミッドの向こうがルーブル美術館です。

カメラ初期設定方向がルーブル美術館です。

ルーヴル・ピラミッド内チケット売り場のカメラです。

展示室0階229 – 石灰岩レリーフ『有翼人面牡牛像』。アッシリア帝国、紀元前8世紀。(サルゴン2世の宮殿で-コルサバード裁判所)(ルーブル美術館デジタル画像リンク)
[アッシリアの拡大と集積する富によって多くの文化が花開いた。新アッシリア時代に特徴的な彫刻として、宮殿などの入り口を守る人頭有翼牡牛像があり、各地で発見されている。また宮殿を飾った浮き彫り彫刻は、主にアッシリア王の狩猟シーンや戦争の場面が描かれており、当時の様子を知ることのできる一級の史料でもある。アッシュールバニパルのライオン狩り彫刻は、その写実性や野生動物の筋肉の表現の秀逸さなどから、アッシリア芸術の最高傑作の一つといわれる。  (wikipedia・アッシリアより)]

展示室0階308 – ダレイオス1世宮殿の謁見の間(アパダーナ)の円柱の柱頭
[スーサのアパダーナ(謁見の間)の屋根を支えていた36本の記念碑円柱のうちのひとつであるこの巨大な柱頭は、イランの伝統を完璧に物語っている。それは一貫した様式の全体を構成するために、異なる文明から借用した要素の組合せによって特徴づけられている。  (「ダレイオス1世宮殿の謁見の間(アパダーナ)の円柱の柱頭 …」より)]

展示室0階345 – 『ミロのヴィーナス』紀元前130年頃(ギリシア)の部屋(ギリシャの美しさの理想-ミロのヴィーナスの部屋)(ルーブル美術館デジタル画像リンク)

展示室0階348 – カリアティード(女像柱)の間(ルネッサンス様式の宮殿の中心に-カリアティードの部屋)
[ルーヴルで一番古い部屋 (日本では室町時代にあたる) 。 入口の上にはバルコニーがあり、その上に横たわっている女性像はアンリ2世(在位:1547年 – 1559年)の愛妾、ディアーヌ・ド・ポワチエ [Diane de Poitiers] だと言われている。 この間はダンスバーティーの間とも呼ばれ、バルコニーはダンスパーティー用の音楽隊席として使用されていた。 バルコニーを支える4本の柱には ジャン・グージョン [Jean Goujon] 作の女像彫刻が施されており、カリアティード (女像柱) はこの柱に因んだ名称である。 因みに、この彫刻は国宝に指定されている。 (「旅の栞(France) ルーヴル美術館 [Musée du Louvre]」より)]

展示室0階419 –

展示室1階403 – イタリア ミケランジェロのギャラリー、カメラ北東方向左が、『反抗する奴隷(Rebellious Slave)』(制作1513年-1515年)、右が『瀕死の奴隷(Dying Slave)』です。(3世紀のイタリアの彫刻-ミケランジェロギャラリー)(反抗する奴隷-ルーブル美術館デジタル画像リンク、瀕死の奴隷-ルーブル美術館デジタル画像リンク)
[かつての「ギャラリー・モリアン」、現在の「ミケランジェロのギャラリー」は、19世紀に「カリアティード〔女像柱〕の広間」にならって建設された。この部屋からは、2階にある「国家の間」へ行くことができる。現在はここで、美術館のイタリア彫刻コレクションの一部、とりわけこの展示室の名前の由来となった名高い彫刻家の《奴隷》を鑑賞することができる。この奴隷像は当初、教皇ユリウス2世の廟墓の一部として制作されたが、芸術家はこの素材を最後まで彫ることなく、一部がそのまま残っている。  (「イタリア ミケランジェロのギャラリー | ルーヴル美術館 | パリ – Louvre」より)

展示室1階700 – 『民衆を導く自由の女神』、ドラクロワ(1830年)(フランスの画家が大きく考えるとき-赤い部屋)(ルーブル美術館デジタル画像リンク)

展示室1階702 – ダヴィド『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』(1805-1807年頃)(ルーブル美術館デジタル画像リンク)

「ダリュの階段踊り場」のカメラで、カメラ方向に大理石彫刻『サモトラケのニケ』(紀元前190年頃)があります。(勝利への階段-ダリュの階段)(ルーブル美術館デジタル画像リンク)

展示室1階703 – 大理石彫刻『サモトラケのニケ』(ルーブル美術館デジタル画像リンク)

展示室1階705 – アポロンのギャラリー(太陽、金、ダイヤモンド-アポロギャラリー
[「アポロンのギャラリー」は「小ギャラリー」の2階部分全体を占めている。この細長い部屋は1661年に火災で消失し、ル・ヴォー(Louis Le Vau)によって再建された。天井装飾はル・ブランに託されたもので、「太陽の運行」を主題としている。ウジェーヌ・ドラクロワヴォールト〔穹窿〕中央部分に《大蛇ピュトンを退治するアポロン》を制作した1851年まで、この天井装飾には絶えず手が加えられていた。  (「ヴァーチャルツアー | ルーヴル美術館 | パリ – Louvre」より)]

展示室1階711 – 『カナの婚礼』、パオロ・ヴェロネーゼ(1563年)・『モナ・リザ』に対面して展示されるルーヴル美術館で最大の絵画。(ルーブル美術館デジタル画像リンク)

  
展示室1階711 – 『モナ・リザ』、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1503年から1506年) – モナリザからカナの婚礼まで(ルーブル美術館デジタル画像リンク)

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展示室2階837 – 『レースを編む女』、ヨハネス・フェルメール(1669年 – 1670年頃)

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ヨハネス・フェルメール作『天文学者』(1668年)

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