マーカーはサン・ジョルジェ城です。
サン・ジョルジェ城(英語:São Jorge Castle、ポルトガル語:Castelo de São Jorge)
[リスボン最古の建造物。城郭内が城址公園となっている。典型的な中世の城といった感じの造り。多くの観光客が訪れるせいか、石の階段などは磨耗してつるつるになっており、滑りやすい。城郭に登ることができ、そこからリスボン市街を一望のもとに見ることができる。ただし城郭の上に行く階段は狭く急で、おまけに手すりも低かったりと、高所恐怖症の人はちょっと怖い思いをするかもしれない。なお、チケット売り場は改札口付近ではなく、そこから30mほど手前の城門入り口近くにあるので注意。 (「リスボン – Wikitravel」より)]
[丘の上の最初の要塞化は紀元前2世紀頃であるということだけ知られているが、考古学調査から、少なくとも紀元前6世紀までには、フェニキア人・古代ギリシャ人・カルタゴ人の影響を受け、土着のケルト人とイベリア人が占領していたとわかった。のち、古代ローマ帝国、スエビ族、西ゴート王国、ムーア人と支配者が変わった。レコンキスタが南下してくると、城とリスボンの町はポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケス(のちの初代アフォンソ1世_(ポルトガル王))により、ムーア人から取り戻された。城は、12世紀後半のムーア人侵入を持ちこたえた。リスボンは王国の首都として拡大し、1255年に王宮となった(アルカソヴァ城Alcáçovaの名前で呼ばれた)。1300年代にはディニス1世_(ポルトガル王)が大改修を行った。1373年から1375年にかけ、フェルナンド1世_(ポルトガル王)が新たにリスボンを取り巻く城壁をつくらせた。一部は古いムーア人の城壁と取り替えられ、かつて防御のない部分だったところを取り囲むように設計された。77の塔、周辺は5,400メートルで、わずか2年で建てられた。14世紀後半には、城とリスボンはカスティーリャ軍の侵攻に立ち向かった。王宮として、城はインド航路開拓者ヴァスコ・ダ・ガマを歓待するのに使われた。16世紀初頭、マヌエル1世_(ポルトガル王)はテージョ川沿いに新しい王宮リベイラ宮殿を建てた。古い中世のアルカソヴァ城はその存在意義を失い始めた。1531年の地震でアルカソヴァ城は損害を受けた。1569年、セバスティアン1世_(ポルトガル王)は自身の住居とするため王宮アルカソヴァの再建を命じた。セバスティアン王が死にスペイン支配が始まると、城は兵舎や監獄となった。1755年のリスボン地震で城はさらに被害を受けた。1780年から1807年にかけ、貧しい子供たちに教育を受けさせるための慈善団体が要塞の中で設立された。1788年、ポルトガル最初の気象台が城の塔の一つに作られた。城が放置される時代は1940年代まで続いた。拡張工事が行われ、城にあった不釣り合いな建築物の多くが、前世紀にまでに破壊されたものと混じり合った。城はどこよりも素晴らしいリスボンの眺めが味わえることから、観光客に非常に人気がある。
サン・ジョルジェ城平面図(拡大図)
「サン・ジョルジェ城」・wikipedia-photo、楼門・wikipedia-photo、城壁と塔・wikipedia-photo、「16世紀初頭の城とリスボンの眺め。2つの塔は王宮の一部。ドゥアルテ・ガルヴァオン著『アフォンソ・エンリケス年代記』より」・wikipedia-photo (wikipedia・サン・ジョルジェ城より)]
「サン・ジョルジェ城 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向がサン・ジョルジェ城門です。
サン・ジョルジェ城内のカメラで、カメラ南南西方向が城門になります。
サン・ジョルジェ城壁上のカメラです。
サン・ジョルジェ城砲台前のカメラです。