シカゴ美術館

マーカーはシカゴ美術館です。

[グーグル・アート・プロジェクトは、グーグル社のストリートビュー技術をそのまま美術館内部にまで持ち込み隅々まで撮影し、web上で公開しています。]

シカゴ美術館(英語:Art Institute of Chicago)
[シカゴ美術館は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ市内にある美術館である。ニューヨークメトロポリタン美術館ボストン市にあるボストン美術館とともにアメリカの三大美術館の1つに数えられる。館名は日本語では「シカゴ美術研究所」、「シカゴ・アート・インスティテュート」などと表記される場合もある。本館の建物は、シカゴ万国博覧会_(1893年)の際に建てられたものである。その後数度にわたり増築が行われ、展示室の構成はかなり複雑になっている。日本ギャラリー(屏風ギャラリー)は安藤忠雄の設計になるものである。また、2009年にはレンゾ・ピアノ設計による新館が建設された。
シカゴ美術館・wikipedia-photo、美術館のメインゲート近くの2頭のライオン像のうちの1頭・wikipedia-photo
ギャラリー
エル・グレコ『聖母昇天』1577年」・wikipedia-photo、「ロートレック『フェルナンド・サーカスにて』1888年」・wikipedia-photo、「ロートレック『ムーラン・ルージュにて』1892年」・wikipedia-photo
ゴッホ自画像』1887年春」・wikipedia-photo

「ゴッホ『ファンゴッホの寝室(第2バージョン)』1889年9月」・wikipedia-photo、「セザンヌ『リンゴの籠のある静物』1890-1894年」・wikipedia-photo、「スーラグランド・ジャット島の日曜日の午後』1884–1886年」・wikipedia-photo、「カイユボット『パリの通り、雨』1877年」・wikipedia-photo、「ルノワール『二人の姉妹(テラスにて)』1881年」・wikipedia-photo、「クロード・モネ『睡蓮』1906年」・wikipedia-photo、「アメデオ・モディリアーニ『ジャック・リプシッツとその妻』1916年」・wikipedia-photo、「マネ『闘牛』1865-67年」・wikipedia-photo  (wikipedia・シカゴ美術館より)]

シカゴ美術館ホームページ(日本語)

シカゴ美術館の見どころ 有名作品 回り方を徹底紹介!全米トップ

シカゴ美術館平面図(「アメリカ三大美術館の一つ シカゴ美術館 – アメリカ観光おすすめ …」より)

The Art Institute of Chicago – Google Map 画像リンク

カメラ東方向がシカゴ美術館です。

シカゴ美術館1階インフォメーションホール前のストリートビューです。

大階段2階のストリートビューで、反転すると2階201室(The Potter Palmer And Bertha Honore Palmer Gallery)です。大階段向こうの部屋は201室になり、201室 – 202室 – 215室 – 226室 – 201室で一周します。平面図の2階灰色の左部分になります。

2階201室(The Potter Palmer And Bertha Honore Palmer Gallery) – カイユボット『パリの通り、雨』1877年
[カメラ南南西方向通路口先左が202室、北北西通路口先右が226室になります。]

2階211室(The Emily N. And Merle J. Trees Memorial Gallery) – エル・グレコ『聖母昇天』1577年

2階201室(The Potter Palmer And Bertha Honore Palmer Gallery) – ルノワール『二人の姉妹(テラスにて)』1881年
[カメラ南南東通路口先が2階ヨーロッパの装飾芸術(European Decorative Art)・印象派、240室 – 240室になります。平面図2階の灰色部右の地下鉄上部になります。]

2階ヨーロッパの装飾芸術(European Decorative Art)・印象派
2階240室 – スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』1884–1886年

カテゴリー:シカゴ美術館のヴィンセント・ヴァン・ゴッホによる絵画」+「田舎家の前で土を掘る農婦」(1885年6月)(wikipedia-photo)

2階241室 – ゴッホ作、 入口、右『自画像』1887年春、左『モンマルトル』1887年初頭(wikipedia-photo)。

[1886年2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されている弟テオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通り(Rue Lepic)のアパルトマンに2人で転居した。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。
同居のテオとは口論が絶えず、1887年3月には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしている。他方、その頃から、ファン・ゴッホは印象派新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになった。テオもこれを評価する手紙を書いている。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#パリ(1886年-1888年初頭)より)]

2階241室 – 初期設定方向中央、ゴッホ作『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』1889年1月(wikipedia-photo)、左はポール・ゴーギャン作『Arlésiennes (Mistral)』1888年(commons.wikimedia)

[1888年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。12月30日の地元紙は、次のように報じている。
『先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。
— 『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日』
ファン・ゴッホ自身はこの事件について何も語っていない。
ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだった弟テオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。
しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。
退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ゴーギャンとの共同生活より)]

2階241室 – ゴッホ作、カメラ初期設定方向中央『ファンゴッホの寝室(第2バージョン)』1889年9月、右『リンゴ、セイヨウナシ、レモン、ブドウのある静物』1887年秋(wikipedia-photo)、左『春の釣り』1887年春(wikipedia-photo)、左壁右端『飲んだくれ(オノレ・ドーミエの模写)』1890年2月(wikipedia-photo)。

[1889年5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20キロ余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院(Monastère Saint-Paul-de-Mausole)療養所に入所した。ファン・ゴッホは、療養所の一室を画室として使う許可を得て、療養所の庭でイチハツの群生やアイリスを描いた。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、アルピーユ山脈の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出てオリーブ畑や糸杉を描くようになった。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と三日月に、S字状にうねる雲を描いた『星月夜』を制作した。
ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている。9月初めには意識は清明に戻り、自画像、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『ピエタ』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた。また、ミレーの『野良仕事』の連作を模写した。ファン・ゴッホは、模写の仕事を、音楽家がベートーヴェンを解釈するのになぞらえている。以降、12月まで、ミレーの模写のほか『石切場の入口』、『渓谷』、『病院の庭の松』、『オリーブ畑』、サン=レミの『プラタナス並木通りの道路工事』などを描いた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#サン=レミ(1889年5月-1890年5月)より)]

2階242室 – 左、ロートレック『フェルナンド・サーカスにて』1888年。右、ロートレック『ムーラン・ルージュにて』1892年。

2階242室 – クロード・モネ、カメラ初期設定方向『睡蓮』1906年、右壁に積みわらシリーズ。

積みわらシリーズ、左から『積みわら』(1890年)、『積みわら – 雪融け、日没』(1890年 – 1891年)、『積みわら – 日没、雪の効果』(1890年 – 1891年)、『積みわら – 夏の終わり』(1890年 – 1891年)、『積みわら – 雪の効果、曇天』(1890年 – 1891年)、『積みわら – 黄昏、秋』(1890年 – 1891年)

2階246室 – セザンヌ『リンゴの籠のある静物』1890-1894年

2階246室 – ポール・ゴーギャン『マハナ・ノ・アトゥア(Mahana no atua)』1894年

2階263室(The Ira A. and Barbara R. Eichner Family Gallery) – グラント・ウッド『アメリカン・ゴシック』(1930年)
[平面図2階のピンクの部分左側に262室 – 265室、右側に271室 – 273室があります。]

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