パットナム砦(監獄船犠牲者の追悼碑)

マーカーはフォート・グリーン・パーク(監獄船犠牲者の追悼碑)です。

フォート・グリーン・パーク
[フォートグリーンパークは、独立戦争中に砦として利用された後、1847年に設立されたブルックリン初の公園です。現在砦はなくなり、バスケットボールコート、遊技場、テニスコート、そてし12万平方メートル以上の広大なスペースでアウトドアを楽しむことができます。土曜日には、公園の外ではグリーンマーケットが開かれ、公園で休みながら食事をとることもできます。  (「フォートグリーンパーク | ニューヨーク完全ガイド – Japan Wid」より)]

[1776年8月9日、ナサニエル・グリーンは新しく少将に昇進する4人の中に選ばれ、大陸軍ロングアイランド部隊の指揮に就いた。彼はブルックリンハイツの東に防衛に適した場所を選び、パットナム砦(現在のグリーン砦公園のある場所)の防壁と塹壕を作った。ロングアイランドの戦いの時は重病のために参加できなかった。  (wikipedia・ナサニエル・グリーン_(軍人)より)]

パットナム砦(監獄船犠牲者の追悼碑)
[ロングアイランドの戦い(英: Battle of Long Island、別名ブルックリンの戦い英: Battle of Brooklynまたはブルックリンハイツの戦い英: Battle of Brooklyn Heights)は1776年8月22日から同年8月30日にかけて(会戦は8月27日)、現在のニューヨーク市ブルックリンを主戦場にして戦われた、アメリカ独立戦争の主要な戦闘のひとつであり、この戦争の中では最大の会戦である。アメリカ独立宣言から1ヶ月余り後のことであり、独立国アメリカ合衆国の軍隊が戦った初めての戦闘となった。
ボストン包囲戦の後、1776年3月17日にイギリス軍ボストンから追い出した大陸軍総指揮官のジョージ・ワシントン将軍は、当時マンハッタン島の南端部でしかなかったニューヨーク市を守るために軍を移動させた。ワシントンはそこに防御陣地を敷き、イギリス軍が攻撃してくるのを待った。
ワシントンは5月初旬に部隊をロングアイランドに動かし始めた。短期間のうちにロングアイランドには数千名の兵士が駐屯していた。ブルックリンの小集落の西にあるスターリング砦を支えるために、その東には3つの砦が建設中だった。この3つの砦はパットナム砦(ルーファス・パットナム将軍に因む)、グリーン砦(ナサニエル・グリーン将軍に因む)およびボックス砦(ダニエル・ボックス少佐に因む)と名付けられた。パットナム砦が一番北で、グリーン砦はそのやや南西、さらにボックス砦が一番南西側だった。当時デファイアンス砦も構築中であり、ボックス砦のさらに南西、今日のレッドフックに近かった。これらの新しい砦に加えて、ガバナーズ島には砲台が建設され、マンハッタン島の南端にあったジョージ砦には大砲が据えられ、イースト川沿いのホワイトホール・ドックにも大砲が置かれた。イースト川やその他水路にイギリス軍が入ってくることを防ぐために戦略的な要所には廃船が沈められた。
7月、ウィリアム・ハウ将軍の指揮するイギリス軍はマンハッタンからは港を隔てて数マイル向こうのスタテン島に上陸し、そこで1ヵ月半の間緩りとニューヨーク湾の艦船から援軍を受け取り、総勢は32,000名になった。イギリス海軍がニューヨーク港への入り口を支配していたので、ワシントンは市を守る難しさを察知した。マンハッタンが最初の目標になると考え、自軍の主力をそこへ移動させた。
8月22日、イギリス軍はスタテン島からナローズを隔てるロングアイランドの西端に上陸した。そこはマンハッタン島に渡るためのイースト川から南10マイル (16 km) 以上離れた位置だった。イギリス軍は5日間待機した後、ブルックリンのグアナハイツにいた大陸軍の守備隊を攻撃した。しかし、ハウはアメリカ軍に知られぬままに主力を大陸軍の後方に移動させ、その側面を衝いた。大陸軍は恐慌に陥ったが、メリーランドの兵士250名が抵抗して部隊の大半が捕獲されるのを妨げることができた。部隊の他の者はブルックリンハイツで守る主力部隊の所へ逃げた。イギリス軍は包囲戦に備えて塹壕を掘ったが、ワシントンは29日から30日に掛けての夜に全軍をマンハッタン島に移動させ、しかも如何なる物資も1人の生命も失わなかった。このあとワシントンとその大陸軍は幾度か敗北してニューヨーク市から完全に追い出され、ニュージャージーを越えてペンシルベニアまでの退却を余儀なくされた。
イギリス軍はニューヨーク市を占領し、パリ条約の翌年(1784年)にイギリス軍が明け渡すまで、ニューヨーク市とロングアイランドの主要部分はイギリス軍の支配下となった。
監獄船犠牲者の追悼碑:グリーン砦にある自立ドーリア様式円柱は、ウォールアバウト湾のブルックリン沖に停泊したイギリス軍の監獄船に収容され死んだ者達を追悼するものである。  (wikipedia・ロングアイランドの戦いより)]

[9月15日、ハウは約12,000名の部隊をローワー・マンハッタンに上陸させ、直ぐにニューヨーク市を支配した。大陸軍はハーレム・ハイツまで退き、翌日ハーレム・ハイツの戦いがおこったが、なんとか陣地を確保することができた。ハウがワシントン軍を囲むように動いたとき、大陸軍はさらに後方に退いたうえで、10月28日にホワイトプレインズの戦いが起こった。ワシントン軍は後退を繰り返したので、ハウはマンハッタンに戻りワシントン砦を占領して約2,000名を捕虜にした。捕虜の数はロングアイランドの戦いの時と合わせて3,000名に上った。この後、ニューヨークで悪名高い「監獄船」が始まり終戦まで続いた。この監獄船で独立戦争のどの戦いよりも多くのアメリカの兵士や水夫が放って置かれたまま死んだ。  (wikipedia・アメリカ独立戦争より)]

Prison Ship Martyrs Monument – Google Map 画像リンク

カメラ位置はフォート・グリーン・パークで、カメラ方向が監獄船犠牲者の追悼碑です。

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